なんらかのあれで猫になってしまったロナルドくんと、可愛がったり面白がったりドラルク。途中急カーブで死にネタを匂わせる

生き物を飼う

 事務所のドアからカリカリと何かを引っ掻く音がしたのにドラルクは気が付いた。時計を見ると深夜一時を過ぎている。吸血鬼であれば活動時間のど真ん中、人間でいえばもう寝ていたい時間だろう。事務所のソファで携帯ゲームをしていたドラルクは自分の横で同じようにゲームをしているジョンに向かって、なんだろうね、と声をかける。ジョンは、見当がつかないというように、ヌーンと呟いた。いつもならば事務所のデスクで仕事をしているロナルドも今日はいない。ドラルクが目を覚ました時にはすでにいなかったので、仕事の依頼でもあったに違いない。何か用がある依頼人や吸血鬼ならばドアを開けて中に入ってくるだろうと、ゲームの画面をぼんやりとドラルクは見つめていたが、扉が一向に開く気配はなかった。開く気配はない割に、ドアを引っ掻く音は止まない。
「一体な…ぅわ!」
 ドラルクはソファにゲーム機を置いて、呟きながら事務所の扉を開ける。すると扉の前にいたのだろう生き物がドラルクの足元を素早く駆け抜けて、部屋の奥へと走っていった。
「…な、なんだ?」
 驚きで一度死んだドラルクが砂から復活した時には、扉から一目散というように入ってきたその生き物は、器用にもロナルドのデスクの上に登って、落ち着かなげにぐるぐるとパソコンの周りを回っていた。
「…ね、猫…?」
 ドラルクの言葉に疑問符がついたのは、猫があまりにも汚れていたからだった。水たまりに突っ込んだように全身泥だらけで、その瞳だけがらんらんとしている。どこか怪我でもしているのか、泥と同じくらいあちらこちらに血液で固まった毛束があった。元は薄い色の毛並みをしているのだろう、汚れがひどく目立っていた。
「ここら辺の野良猫かなあ、見たことないけど…」
 ドラルクは恐る恐るロナルドのデスクの上で落ち着かなげに歩き回る猫に近づく。成猫というほど大きくはなく、顔立ちはまだ少し幼いように見えた。一歳くらいの猫なのだろうか。だいたいドラルクはあまり動物と触れ合うのが得意ではない。ジョンは元から知能の高いアルマジロだったし、そもそも幼い頃から面倒を見ていた。
「でも怪我してるんだったら、心配だもんね」
 泥だらけのまま室内を歩き回られるのも困る、とドラルクは思い、猫を抱き上げようと手を伸ばす。すると猫は急に自分の頭に伸びてきた手に驚いたように、びくりと歩みを止めて後ずさる。デスクの上で踏ん張る為に力を込められた前足から、爪が伸びているのにドラルクは内心焦った。
「頼むから、引っ掻いたりしないでくれよ。私は君より確実に弱いぞ」
 抱き上げたあとで引っかかれたりして、死んでしまった挙句に猫を落として、砂になった体の上で遊ばれたりしたら敵わないと思いつつ、猫にそう話しかける。猫はドラルクの言葉がわかるかのように、伸ばされた手からドラルクの顔へと視線を移し、瞬きをした。猫は考えるように首を傾げている。ドラルクは妙な緊張感のせいで動けずにいた。しばらくこう着状態に陥ったあと、猫は何かを納得したとでもいうように、ドラルクの伸ばした手に向かって歩いてきた。たしたしと、肉球でデスクを歩く音がする。ドラルクは少し感心したようにため息をついた。
「君、案外賢い猫だな」
 猫の毛というのは水を吸ってもすぐ乾くのか、抱き上げてもドラルクの服が濡れたり汚れたりすることはなかった。賢いわりにあまり人に慣れない猫なのか、ドラルクの腕の中で重心をぐにゃぐにゃと変えており、腕の中に収まりたいのかそれとも抜け出したいのか、判別がつかない。ただ爪は出ていないので、ドラルクに抱かれているのが嫌という訳でもないらしい。ドラルクの腕の中の猫は、動物らしく暖かく、激しく脈を打っている。
「とりあえずそんなに動けるなら怪我とかはないのかな?」
 にゃあ、とドラルクの言葉に返事をするように猫が鳴いた。それが肯定なのか否定なのかはドラルクにはわからない。ジョンにならわかるだろうかと、事態を見守っていた使い魔に目をやるが、彼は彼で反応に困っているようだった。泥だらけのみすぼらしい猫をこのまま外に放り出すという気にはなれず、かといってここからどうすべきかもわからずドラルクは途方にくれた。
「とりあえずロナルド君が帰ってくるのを待つか」
 ここは新ドラルクキャッスル兼ロナルド吸血鬼退治事務所なのだから、面倒臭い出来事はロナルド君が片付けてこそだろうとドラルクは思った。
「でもそれならまずやらないといけないことがある」
 ドラルクの言葉に腕の中の猫が疑問を持つようにまたにゃあと鳴いた。

 薄汚れた野良猫ならば洗わねばなるまいという気持ちでドラルクは猫を抱えたまま、浴室へと向かった。先ほどは落ち着きなく重心を変えていた猫はコツでもつかんだらしく、今は静かにドラルクの腕の中に収まっている。大抵の猫は洗われることを嫌がるものだが、この猫は例外らしい。浴室まで行くとまるで自分がされることをわかっているかのように、ドラルクの腕の中から飛び降りて、浴室の床に行儀よく座っている。
「なんかちょっと気味が悪いな」
 吸血猫だったりする? とドラルクが猫に声をかけると、猫はくしゃみをする寸前のように鼻にシワを寄せてから、ふにゃふにゃとドラルクに向かって鳴いた。まるで自分に話しかけているようで、可愛らしい気がしてドラルクは笑う。
「おしゃべりな猫だなあ」
 実際吸血猫だとしても、ドラルクにとっては大した問題ではないし、吸血鬼化した動物であればもう少しスムーズに意思疎通ができるはずだ。だからドラルクの足元で行儀よく座っている猫は、特別に賢いか、あるいは人の機微を読むのがうまいのだろう。
 ドラルクはそう思いながらシャワーのカランをひねる。シャワーヘッドから吐き出される水が適温になるのを待ってから、行儀よく座っている猫にしゃがんで近づく。猫は先ほどドラルクが事務所のデスクの上で抱き上げようと手を伸ばした時と同じように、後ろ足で一歩後ずさった。先ほどまではすらりと伸びていた尻尾が膨らんでいる。
 あまり驚かせないように、頭から遠い場所からお湯をかける。ふぎゃ、と驚いたように声をあげたあと、猫はそれ以上鳴かなかった。水に慣れていて動かないというよりは、驚きすぎて動けないのか体が固まっている。猫用のシャンプーといったものもないので、泥やこびり付いた血が取れれば良いだろうとドラルクは考えていた。水に濡れてぺたんと体に張り付く猫の毛並みは、浴室の灯りを受けて不思議な光沢を放っていた。毛先で固まっている血液をジャリジャリと指で砕きながらお湯で流していると、泥と血の混じった色の水が排水口に吸い込まれて行く。シャワーで汚れを洗い流す際に猫の体に触れてみたが、痛がる様子はなかった。
 最後に濡れたタオルで顔を拭いてやると、パチクリと驚いたように瞬きをしている猫の瞳と目が合った。猫の瞳が綺麗な青い色をしていることにドラルクは気が付いた。体が固まったままの猫をタオルで拭いてやるとそこでようやく驚きから立ち戻ったのか、猫は不満を訴えるように長々とドラルクにはわからない言葉で話しかけてくる。
「おや、君、白猫かと思ったら銀色なんだね」
 白というには少し灰がかった色をしていると思っていた毛並みは泥と血を洗い流すと、明かりの下で不思議な光沢を持つ銀色をしていた。美しい猫だな、とドラルクは何とはなしに思う。月光の下で、路地裏を歩いている様子はさぞ神秘的に見えることだろう。
「瞳も青いし、ロナルド君みたいだな」
 あのゴリラにこんな可愛げはないけどね、と濡れているのが気持ち悪いのか必死に自分の体を舐めている猫を見ながらドラルクは話しかける。だが一度そう思うと、この銀色をした猫は見れば見るほどロナルドに似ているようにドラルクには思えてならなかった。なにせ吸血鬼のホットスポット新横浜では、珍事には事欠かないのだ。ハンター一人が猫になるくらい珍しいことでもあるまい。
「君、もしかして本当にロナルド君だったりして」
 ドラルクがそうこぼすと、今まで熱心に自分の体を毛づくろいしていた銀色の猫は、ハッとしたように顔をあげて、ドラルクに向かって鳴き始めた。その尋常ではない様子に、ドラルクは先ほど自分がいった一言を思い出して、猫と同じようにハッとした。
「もしかして」
 ドラルクが口を開くと、猫は祈るように目を瞬かせた。青い瞳の底にあるタペタムが蛍光灯の灯りに反射して光って見える。ドラルクの先ほどの思いつきを振り返って、その猫を見れば見るほど彼に似ている気がすると思わずにはいられなかった。大体獣にしては賢すぎる。
「本当にロナルド君…なのか…?」
 ようやっと意思が通じたとでもいうように、猫はか細い声でにゃーと鳴いた。

 さて、真祖にして無敵の吸血鬼ドラルクは底なしの享楽主義者でもある。面白そうなことが大好きだし、彼はその体質ゆえに懲りることを知らないので、後先考えない。いつもは自分を息をするように気軽に殺すロナルドが猫になっているのを面白がらないはずがなかった。
 ロナルドがなぜ猫になったのかはともかくとして、これは千載一遇のチャンスである。ロナルドで遊ぶことはドラルクの生活の、最大の暇つぶしと言っても良いだろう。したがって彼は、その猫がロナルドその人であるとわかった次の瞬間に、ロナルドが常日頃から何かあった時のためのフクマさん用袖の下として用意してある、猫のおもちゃのことを思い出した。我ながら冴えているものだなあ、とドラルクは自画自賛をした後で、おもむろにそのおもちゃとロナルドで遊ぶことにしたのであった。
 猫が夢中になるおもちゃ、とレビューでも大絶賛だった猫じゃらしは、なるほど本当にその通りだったようだ。しなる棒の先にゴム紐が続いており、一番先端にはビニール素材の銀色のテープが何本も結びつけられている。しゃらしゃらと擦れて鳴る音も猫には心地よいのかもしれない。猫になってしまったロナルドは不本意だが、本能には逆らえないといった具合に、ドラルクが右へ左へと動かすおもちゃに視線を合わせては飛びかかっている。
 ふぎゃあ、とあまり猫らしくない声を上げて何かを言い募ろうとするが、動き回るおもちゃにどうしても気を持って行かれるらしく、鳴き声は途切れて猫じゃらしの先端にかじりつく。
「ふははは!いつも私を馬鹿にしているからだ、私の掌の上で転がされている気分はどうだっ、このゴリラめっ」
 いや、今は猫か、とドラルクは笑いながら付け加える。とはいえもともと運動神経・身体能力が図抜けているロナルドは猫になってもそこは変わらないらしく、ドラルクが振り回す猫じゃらしに飛びついてビニール素材のテープを噛みちぎらんばかりだ。実際に爪も伸びているし、噛んでいる牙は小さいながらに獣で、あれ本気で噛まれたら痛そう、とドラルクは背筋を少し冷たくしながら思う。
 このロナルド翻弄お遊戯タイムは時間にして約1分半ほどで終了した。ドラルクの体力が尽きたからである。
「ちょ…ちょっと、待って…」
 息を切らせながら、口に咥えたテープを吐き捨てて、猫もといロナルドがドラルクに迫ってくる。ぐる、と喉の奥で鳴る音は決して甘えているから出ているわけではないことくらい流石にドラルクでもわかる。
「待っ」
 ってくれ、と最後まで言う前に、爪を立てた猫パンチがドラルクの鳩尾に直撃した。あっという間に砂になるドラルクを踏みしめて、ニャゴニャゴとロナルドは何かを言っている。ドラルクには何を言っているのかわからないが、ニュアンスから馬鹿にされているのは感じ取れた。
「…ふ、ふふ…そんな態度を私にとって後悔するなよ、ロナルド君!」
 今の君は猫の性質に引っ張られてるんだからな! と再生しながらドラルクは叫んだ。肉球の下でずるずると動く砂の感触が気持ち悪かったのか、あるいは何か悪い予感がしたのか、猫になったロナルドは素早く砂の上から飛び去った。
「これでもくらえ!」
「にゃ!」
 おもちゃと一緒にしまってあった花柄の巾着袋をロナルドの前に投げ込むと、ロナルドは一瞬なんだかわからないというように体を硬直させてから、尻尾をピンと立てる。ぎゃあぎゃあと最初は鳴いていたが、結局は投げられた巾着袋の方に興味が行くようで、熱心に匂いを嗅いでいるうちに、ずるずると脱力をしてしまったようだった。
「猫ルド君にマタタビは効果が抜群だったようだな!」
 高笑いしながらそういっている間にも、猫になってしまったロナルドは酩酊したようにマタタビの入った袋を緩慢に舐めている。猫によってマタタビの効きは違うと聞いたことがあるが、酔ったようにふらふらになるタイプでよかったな、とドラルクは思った。めちゃくちゃ興奮して、動きが活発になっていたら、抑えようがないどころか殺される無限にループに入っていたのかもしれないと思いながら、床に寝そべったままの猫に触れる。
 猫になってしまったロナルドの体温は小動物であるということを差し引いても暖かく、吸血鬼の低い体温では若干熱いと感じるくらいだった。遊んでいる間にすっかりと乾いた毛並みは柔らかく触り心地がよかった。朦朧としているのか、ドラルクに撫でられていると気づきもしないロナルドは喉の奥を小さくゴロゴロと鳴らしていた。腹を撫で、緩慢に動いている舌を邪魔しないように顎下を撫でる。指の先に小さく振動が伝わって、あまりにも猫そのものの姿にドラルクは少し焦る。
「ロナルド君、そのまま猫になったりしないよね…?」
 猫のままじゃあ面白くないだろ、と呟くと、焦点が緩んで瞳孔の開いた黒目がちの青色がドラルクを見やった。そして子猫みたいに甲高く、にぃ、と鳴いて、甘えるようにドラルクの手のひらに頭を擦り付けた。
「この、5歳児め…」
 自分の行いの結果だというのに、ロナルドの様子にドラルクは驚いて負け惜しみのようにそう呟いた。



 懐かしい夢を見た、とロナルドがかすれた声で呟いたのをドラルクは目を閉じて聞いていた。
 いつの間にか、窓から差し込む夕日がどこまで床を照らすかまでわかるようになってしまった。ドラルクはソファに座りながらうたた寝をしていたロナルドの膝に頭を置いたまま、そんなことを考えいてた。夏の夕暮れは遅い。時計はもう18時をとうに過ぎているのに、短い真っ赤な光が床にポツリと落ちている。夕暮れの光に照らされるロナルドの瞳は決して混じり合わない赤と青がとぐろを巻いているように見え、それは若い頃から決して変わらない。
 あの頃から随分と時間が経って、ロナルドは人間にふさわしい速度で老いていった。その早さはドラルクが追いつけるものでは到底なく、それも至極当たり前な事としてわかっているつもりだった。彼が病院からこの事務所に戻ってきたのは随分と久しぶりな事で、彼がまた病院に戻る事はほぼ無いだろうことをドラルクもロナルドも理解していた。
「ロナルド君、君、本当に死んじゃうの」
 うたた寝から目を覚ましたロナルドはドラルクの髪を慣れた手つきで撫でた。カサついた手のひらには年月が刻まれて、刻まれた年月の分だけ弱々しかった。
「お前、畏怖欲はどうした?」
 甘ったれめ、と馬鹿にしたようにロナルドが呟いて、ドラルクの頭を撫でていた手のひらを滑らせた。伸ばして後ろに一つに結んである髪にゆっくりと指で触れる。
「そりゃ生き物はみんな死ぬだろ」
 ロナルドはそう言って、おかしくてたまらないというように笑った。歳をとるっていうのはいいこともあるんだ、と付け加える。昔のことがよく思い出せる、とロナルドはドラルクを慰めるように髪を撫でている。
「猫の寿命は大体16年、人間が猫を飼ってその一生を見届けるのと、吸血鬼が人間と友人だった時間、きっとそんなに変わらない」
 ドラルクはロナルドの膝に頭を乗せたまま、彼の表情を眺めやる。ロナルドは何がおかしいのか、本当に優しい笑顔を浮かべている。
「猫だって飼い主より先に死んじまうもんなんだよ」
 存分に悲しめよ、ドラ公、と勝ち誇ったようにいうものだから、ドラルクはため息をついた。
「ロナルド君って…年を取っても本当に脳みそは5歳児だな」
 可愛がっていたペットが死ぬときはこんな気持ちになるのだろうか。ドラルクにとっては全てが初めてで、よくわからなかった。彼の周りの存在が彼より先に死んだことなど、未だかつて一度もないのだから想像すらできなかった。
「お前、俺の他にも友達ちゃんといるだろ」
 指を折って数えているロナルドの姿をドラルクは残酷だな、と見上げたまま思った。
「馬鹿だな」
 誰に向かって言ったのか、ドラルク自身にも定かではなかった。ロナルドは、自分に言われたと思ったのだろうに、鷹揚に笑うだけだった。動物を飼った人間は、飼ったその命のことを一生忘れないじゃないか、とドラルクは少し悔しくなった。
「私の一生は、本当に、本当に、終わりが見果てぬ程長いんだぞ」
 ドラルクは絞り出すようにそう言った。窓の外から差す光があまりに赤くて眩しかった。銀色の髪が光に透けて、ドラルクの目を射る。ロナルドは混じり合わぬ色の瞳を、全てをわかっている様に細めて、ドラルクの思っていることを何も知らないみたいに穏やかに笑っている。

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