‪左手の薬指がかけたドラルクが何でその指がかけたのかをロナルドくんの死後にモブに話す話

左手がかけたまま

「若気の至りなんだよ」
 真っ白な手袋に包まれたほっそりとした左手を、反対側の手で撫でながら暗がりのバーカウンターで痩せこけた顔をした吸血鬼は歌うように低く呟いた。

 そこは場末のバーで、仕立ての良い、いささか古典的すぎる服装をした吸血鬼には不似合いだった。天井からつりさがる造りだけが豪華な安っぽいプラスチックのシャンデリアから落ちてくるオレンジ色の光が、このバーには笑えてくるほどちぐはぐだ。ロックグラスの中の薄赤い液体を面白くなさそうに飲む吸血鬼に、ぼんやりとした照明の光は幾分か似合っていた。
 まるで改装途中でオープン日が来てしまって、無理やり開けられたかのような店内は、ジャズバーだというのに古ぼけたジュークボックスが置いてあった。並べられているレコード達はきちんと保存されているのか分からず、硬貨は吸い込まれたっきり消えることもあるのだと言う。
 吸血鬼が現れやすいホットスポットというのは世界中にいくつもあるが、この町はそうではなさそうだった。吸血鬼が活動するにはあまりにも人里離れすぎている。下等吸血鬼が時折出ては、害虫駆除のように退治されるだけで、高等吸血鬼と相対することなど、この町に住んでいれば一生ありえないに違いない。そう見当をつけるくらいには郊外の町だった。
 男はただの通りすがりの旅行者にすぎない。大陸中の主要な観光都市をめぐり、少し北に抜けようと思って立ち寄った町だ。安宿に荷物をおき、1日だけ泊まって、また明日には出て行く。このバーに寄ったのだって、たまには酒を飲むという贅沢をしても良いと思ったからにすぎなかった。
 まさかそこで座った隣の席に、高等吸血鬼がやってくるだなんて思いもしなかった。男はたった一人で長い距離をめぐる若い旅行者にありがちに好奇心が大層旺盛だった。だから、隣の席にやってきた吸血鬼に話しかけた。
 ここに住んでいるのか、住んでいるならば長いのか、ここはどんな町か、聞けば吸血鬼は特に嫌がりもせずに、むしろそう話すことが嬉しいとでもいうように穏やかに答える。なんてことのない田舎町だね、人が少ないのは静かで良い、ここにはもう20年位居て、もう30年くらいはいるかも知れないが決めていない、なんてとりとめない会話が続く。男は自分が旅をして見聞きしてきたことと、これから行こうと思う場所について話し、そういえばと名前を名乗って、左手を差し出した。すると吸血鬼は少し驚いたような顔をしてから、ドラルクだと名乗って、左手で握り返した。
 結果的にそれは奇妙な握手になった。ドラルクが握り返した左手の薬指は奇妙な金属音を立てて曲がりかけたが、男の手を握り込むことはなかった。男は訝しげな顔を一瞬浮かべてから、それが表に出ないように努めたが、無駄だった。
 ドラルクは自分の左手を男の左手からゆっくりと離して、白い手袋で包まれた左手の薬指を右手で優美な仕草でなぞった。それから、低い声で歌うように言った。若気の至りなんだよ。
「若気の至り…ですか」
「いや、これが酷い話なんだよね」
 攪拌されてぼんやりした光が落ちる店内に、同様にはっきりしないスポットライトが店の奥のステージを照らしているのが視界の隅に見えた。ぴかぴかに磨かれたサックスで、誰の心にも残ることのないジャズが鼓膜を滑り落ちて消える。ドラルクの表情はオレンジ色の光に照らされて優しげに見えた。彼の呟きは音の合間に紛れて、男には少し聞き取りづらかった。
「昔話なんだけど、聞いてくれるかな」
 そう尋ねるように口にする割りに、ドラルクは男の相槌など必要ないようだった。誰の相槌も必要としない赤い瞳は昔話を思い起こしているのか、遠くを見ている。
 普段はこんなところに足を踏み入れもしないだろう風体のわりに、吸血鬼は随分とこのバーに通っているようで、バーテンダーに改めて注文をするわけでもないのに、ロックグラスを飲み干すと得体のしれない液体に満たされたグラスがまたドラルクの前に置かれた。
「随分と昔に吸血鬼退治人と一緒に暮らしていたことがあってね。というのも彼が私の城を壊してしまったものだから、償いをしろと彼の住まいに転がり込んだんだよ。彼の住まいは本当に狭くて、私の城とは比べものにならなかった。まあ、居心地はよかったかな? 随分と中途半端な街で、そういう街には吸血鬼が集まりやすいだろう? だから退屈はしなかった」
 そう、随分と騒がしく面白い日々だった、と吸血鬼は一度息を吐いて、瞬きをした。赤い瞳が血色の悪い瞼で覆い隠されまた現れる。吸血鬼退治人と高等吸血鬼が一緒に住むというのはあまり聞いたことの話だった。特別に人間に友好的な吸血鬼だって、吸血鬼をハントする退治人と一緒に暮らすというのはなかなかに想像しがたい。もしかしたら、これはこの吸血鬼の冗談なのかもしれないとふと思った。
「集まる吸血鬼っていうの大抵はトンチキなのが多くてね、規模と被害のわりにはなんていうか顛末がくだらなくなりがちだった。それがまた笑えるっていうか面白くてね、そんなに長く居たわけじゃないのに、随分と長い時間あそこに居た気がする」
 ロックグラスをちびりと舐めて、吸血鬼は思い出を懐かしむように目をつむって首を傾げた。少し開いた口から覗く白い牙は、吸血鬼らしく尖っている。軋んだ音を立てる左手の話には、まだなりそうになかったけれど、話を遮る気にはならなかった。
「最初は気に食わない退治人ってだけだったのに、暮らし始めると馴染むのはあっという間だった。吸血鬼ってのは料理がうまいものだけど、私のものは逸品だったから、退治人を手懐けるなんて訳なかったよ。年齢はすっかり大人だっていうのに妙に子供っぽくて、唐揚げが好きだの、オムライスがいいだのと、おやつはバナナが入った甘いのがいいだとか、凝った料理の一つも作れないようなキッチンしかないくせに夜食の要求をしてきたりね」
 吸血鬼はとめどなく話し続けた。自分とその退治人との生活についての特筆すべきことのない日常の話だ。
 でも優秀な退治人だった、と吸血鬼は付け加えた。彼の風貌に似つかわしくない暖かな声音だった。
「市民の命を最優先に考える男だった。子供みたいに我慢が効かなくてすぐ怒るのに、流されやすくて、よく言えば寛大だった。だから私みたいな吸血鬼にも絆されるのさ。私も彼のことを大いに気に入っていた。ずっと彼がそばにいるのだと勘違いをするくらいには」
 ある晴れた五月の日だった、と息を吸ってから吸血鬼は吐き出した。
「その日は本当によく晴れていて、窓を開けると爽やかな風が吹いていた。いい月夜の晩だね、と私が言うと、彼は窓の外を見上げて目を細めてそうだなと答えた」
 話を聞いていた男は自分のグラスが空になったのに気がついた。カランと氷がグラスに当たって鳴る。しかしバーテンダーは注文を取りにはやってこない。
「いつもの通りのなんてことのない退治だ。あの街で高等吸血鬼が出るのはよくあることで、それが危険な吸血鬼なのも稀ではなかった。警察ともギルドとも連携は取れていた。だからあれは不幸な事故だった」
 事故? と男が聞くと、吸血鬼は鷹揚に頷いた。尖った顎から落ちる影が冗談のように細い首にかかっている。
「たまたま人を害する吸血鬼で、たまたま彼と私が最初に廃ビルでその吸血鬼を見つけて、たまたまその吸血鬼は子供を人質にとっていた。人を害する吸血鬼は、強大な力を持っていたわけではなく、その代わり人間じみてずる賢かった。相手は人質を解放して欲しければ武器を捨てろと言ってきた。彼は一も二もなく従った。黒い銃を床に落とすと、吸血鬼はそれをこちらに蹴れと叫んだ」
 言い訳をさせてもらえれば、と吸血鬼はなんとはなしに付け足した。
「別に彼は特別弱いわけではなかった。歯に衣を着せずに言うのなら、癪なことだが、かなり優秀な退治人だったんだ。ただ自分の命より他人の命を優先する男というだけだ。彼はもちろん銃を蹴った。銃をザリザリと音を立てて吸血鬼の足元に転がった。吸血鬼は銃を拾い上げて、ゆっくりと彼に向けた。慌てたよ、私は真祖にして無敵の吸血鬼だけど荒事は苦手だったし、退治人は自分のせいで誰かが死ぬのに耐えられるタイプの人間ではなかったからね」
 吸血鬼は少し考えるように眉間にシワを寄せた。それから苦い声で続きを話し出した。
「彼は隠していたもう一つの銃に手をかけていた。言っただろう、彼は優秀な退治人だった。人質をとっていた吸血鬼は意外なことに子供を解放した。廃ビルから突き落とすという形でね。彼の銃の腕は優秀だった。だから引き金に指をかければ絶対に彼はその吸血鬼を退治することができたはずだ。でもそれはできなかった。子供を助けないといけない。彼は一瞬だけ迷ったのだと思う」
 私も迷った、と吸血鬼はつぶやく。
「彼がここで死ぬくらいなら、子供が死んだほうがいいかもしれないと一瞬だけ思った。あれは良くない迷いだった。だから」
 吸血鬼が左手の薬指を記憶を辿るように撫でる。サックスが高く鳴いて伸びる。もうすぐ曲が終わるのだろう。
「子供を突き落とした吸血鬼は彼をきちんと狙っていた。月光に照らされた銀色の銃の引き金に指がかかってた。彼は子供を助けるために銃を投げ捨てようとしてた。一瞬の迷いのあと私は彼をかばおうとしたよ。薄い体だってないよりマシだと願ってね」
 爽やかな風の吹く、空に雲ひとつない良い日だった。
「一瞬の迷いのせいで私は結局中途半端に彼に手を伸ばした。吸血鬼はオートマチックの引き金を引き、銀の銃弾はまっすぐに発射されて、私の左手の指を撃ち抜いて、その塵にもろとも退治人の心臓に埋め込まれた」
 ぶつり、と唐突にサックスが終わる。曲が終わっても拍手も何の音もしない。サックス吹きはそれを気にしないとでもいうように、ステージから降りる。
「それからこの薬指はなくなってしまった。彼と一緒に永遠に死んだ、私がもっとも羨む私の消えた一部になった」
 話に出てくる退治人と吸血鬼の迷いを生じさせた子供がどうなったのかについて、彼はそれ以上語らなかった。覚えていないのかもしれないし、あるいは彼にとっては語る必要のないことなのかもしれない。
 ドラルクと名乗った吸血鬼はゆっくりと左手の手のひらに右の人差し指を差し入れて、左手の手袋を外していく。彼のグラスの氷はすっかりと溶けて、薄い血の色になっている。
「若気の至りだよ、永遠に忘れられなくなってしまった」
 彼の細くて血色の悪い左手の薬指は、美しい銀色に光っていた。

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