冬の海でエモい話をするドラロナがかきたかった

冬の海

 夜明け前の空が一番暗いと言ったのは誰だっただろう。ロナルドはそんなことを考えながら、冷たい風の吹きすさぶ真っ暗な砂浜を歩いていた。新横浜からすこし離れた場所での依頼だったのだが、思いの外長引いて電車を逃してしまった。退治が終わったのが、深夜と明け方の合間で、始発もしばらく待てば出そうな半端な時間だったので、休んでいってはどうかと依頼人に言われたのを固辞してふらふらと歩いていた。海に近い街で下等吸血鬼の退治だ。海に向かって吹く冷たい風がロナルドの背中を押した。
 海に向かおうと思ったのはほんの気まぐれだった。もともとあまり目的のない遠出や外出をロナルドはしない。行く場所が決まってもいないぽっかりとした時間はロナルドにとっては居心地が悪い。海に近く海水浴場があるとはいっても真冬のこの時期、しかも一番冷える明け方の時間帯に砂浜に人がいるわけもない。人気のない海は真っ暗で、波音ばかりが大きい。時間からして夜明けはそれほど遠くないが、空はうっすらとも明るくならない。始発が動き出すまではまだ幾分か時間があった。
 ロナルドは冷たく乾いた砂浜に座り込んで、膝を抱えた。誰もいない海は波の音以外はとても静かで、まだ事務所でたった一人過ごしていた頃を不意に思い出す。それはさほど昔ではないというのに、もう感触を思い出せないほどにはるか遠く隔たっている気がした。けれどこんな日に疲れ切って始発の電車に揺られて帰り、服を着替えることもなく、空腹だけれども何かを食べる気力もなく、ソファの背もたれを倒しもせずに泥のように眠ったことを、まるで他人事のように思い描いた。
 あの頃に戻れと言われてももう無理だろうかとロナルドはため息をついてから、ぼんやりと考えた。答えはわからない。最初は慣れなくても、案外と一人の事務所であることに違和感はなくなっていく気がした。最初がそうだったのだから、それに戻るだけなのだから。戻れないのだと思ってはいけないのだと不意に思う。永遠に続くことなどないのだと、あの吸血鬼よりも自分の方がよほど理解している、とロナルドは自負している。
 時間を持て余しポケットの携帯を取り出すと、三時間ほど前にメッセージが来ていた。
『君、何時に帰ってくる? こっちは夜食作って待ってるんだけど』
 簡潔なメッセージは少しの怒りを含んでいる。自分は食べないくせに料理には一家言ある吸血鬼は、ロナルドの帰ってくるタイミングに合わせて料理を作り終わることが多いのだ。何事も出来立てに勝るものはないよ、と得意げに笑う吸血鬼の表情がロナルドは嫌いではなかった。
『帰るの、朝になる』
 画面をタップしてそう送ると、すぐに既読がついた。時間的に起きているとは思っていなかったし、起きていたとしてもゲームか何かをやっていると思っていたので、既読がついたのにロナルドは驚いた。
『退治手こずってるの? 帰る時間わかったら連絡して』
 ロナルドはふと思い立って、携帯で海の写真を撮った。先ほどよりかは薄明るくなった辺りは画像にするとひどく荒くて、不気味だ。
『海にいる』
 その画像をそのまま送って、メッセージをつけると、すぐに返信が来た。
『なんで海? 寒いでしょ』
「はは」
 確かにそうだ。いくら依頼された場所と近くても真冬に海辺に行くような物好きな人間はいないに違いない。
『海、誰もいなくてきれいだぞ』
 人がいなくて寂しいくらいだ、と打ってから、ロナルドは少し考えてそのメッセージを入力欄から消した。代わりの文章を打って送ると、ぽん、と間抜けな音がする。
『お前も来たら?』
 駅の名前を打つと、既読はすぐについた。ロナルドは柄にもない言葉を送ってしまった気がして、もう既読がついてしまったそのメッセージをそれでも消そうかと一瞬悩んだ。けれど、ドラルクの返答の方が早い。
『いいね、行こうかな』
「は?」
 ロナルドの口から呆れた声が漏れた。もうすぐ夜明けだ、今から新横浜を出てここにやってくると中で太陽は登りドラルクは死ぬことだろう。すぐに死んでは再生する吸血鬼は時折突拍子もないことを言い出すのだ。ジョンが悲しむだろうが、慌てて打とうとすると、続けてメッセージが送られてくる。
『冗談だよ』
『もうすぐ夜が明けるでしょ』
『私、死んじゃうし』
 ぽん、ぽん、ぽん、とリズムよく返って来たメッセージにロナルドは肩の力を抜いた。上半身を冷たい砂浜に預けて寝転ぶと、うす青い空が見えた。もうすぐ朝焼けが始まるのだろう、起き始めたカモメの鳴き声が遠くから聞こえる。ロナルドは目を瞑る。視界が閉ざされると潮の匂いが強く感じられた。冷たい風が頰をなぶって、手袋をしている指先が凍えそうだった。波の音は規則正しくロナルドの鼓膜を撫でて、なんだか眠りたくなってしまう。
「寝たら死にそうだな」
 寒いし、と小さく呟いた声は誰にも届かない。ロナルドはなんだかおかしくなって、頰を緩めて笑った。引いては返す波の合間に足音が聞こえた気がして、閉じていた目を開ける。うっすらと水平線の彼方から空が明るくなっている。海と空をぱっきりと分ける線の、そのすぐ下に、太陽がいるのだろう。
 今、聞こえた気がした足音があの吸血鬼だったらと思ってしまった自分にロナルドは苦笑した。電車も動いていなければ、今いる場所を告げたばかりの最弱の吸血鬼がここにやって来れる手段など何一つ存在しないというのに。
 もしここにアイツがいたら、と愚にもつかない想像をする。吸血鬼は夜明け前のどこまでの明るさなら大丈夫なのだろう。直射日光が当たらなければ死なないのだろうか。まだ太陽は水平線のしただ。うっすらと明るい空気は青く沈んで美しく、ドラルクと波打際を歩きながら他愛のない話ができるような気がした。日常のなんでもない話を、したいとロナルドは思った。
 朝日が差し込みそうになったら波を避けるように陽光を避けて走って、ついには逃げ切れずに砂になったあいつをジョンと一緒に集めて、始発の電車に乗って新横浜に帰るのだ。そんなことを考えていると腹の上に置いていた携帯が鳴る。画面を見るとドラルクからのメッセージだ。
『もう始発出る時間じゃない?』
 携帯の時計を見ると確かにもうそんな時間だった。ロナルドの返信を待たず、メッセージがつらつらと送られてくる。
『私は寝てるけど、これレンジであっためて食べて』
 テーブルの上に並んだラップのかけてあるオムライスの画像が送られて来た。現金なものでロナルドは急に空腹を覚える。
『了解』
 そう簡単に返すと、既読マークがついた。ロナルドはそこで携帯をポケットに入れて立ち上がる。足や背中を叩くとぱらぱらと砂が落ちる。洗濯する時に文句を言われそうだと、ロナルドは反射的に思い、少しばかり顔をしかめた。
 海から駅まではそれほど遠くなく、ドラルクが連絡をくれたおかげで始発に乗り遅れずに済んだ。始発の電車はガラガラで、窓から登る朝日が反射する海面が家々の合間から見えた。赤い色はすでに消えて、白い陽光がロナルドの目を射った。これをあの吸血鬼と一緒に見たいとロナルドはぼんやりと思った。
 それがもちろん永遠に叶わない夢だとも、彼は当然わかっていた。

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