家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

7.こうふく、まであと一歩

 家の玄関から飛び出して、左に曲がる。坂を右に登る。信号のない横断歩道の両側を見ないで渡って、右に曲がる。左にある坂を降って、右、左、左、坂を登って右手にある公園は、家から歩くと随分かかる。ブランコと大きな滑り台と、砂場があるだけの公園は大きな病院の裏手にあり、いつも閑散としている。
 じわじわと蝉の声が周り中からして、くらくらとする。全くすっかりと晴れている空にぽっかりと浮かんでいる太陽はまっすぐに光を注いで、ロナルドの後頭部に突き刺さる。自分の足下から伸びる影が短く、真っ黒であることがロナルドは少し嫌だった。
 むわりとした空気は砂や土、蝉がとまっているのだろう木々の匂いと混ざって、ロナルドはいつも図工の時間にいじる粘土のような匂いがするなと思う。湿気を含んだ空気は暑さを少しも減らすことはなく、ロナルドは自分の首筋や背中が汗が流れるのがわかる。頭からこめかみを通って頬に落ちる汗の感触は、なんだか怪我をした時と似ていて、はっと手をやるが、指先に血がつくことはない。
 じわじわじわじわ。
 蝉の声をロナルドは頭の中で繰り返す。ロナルドは小学校が早く終わる日の午後が嫌いだった。家に誰かがいてもろくなことにはならないし、誰もいなくてもエアコンがつくことのない室内で蒸し焼きにされてしまう。日に焼けて色あせた畳の上に体を横にして投げ出していると、ぬるい水道水を取りに行くために起きるのすら面倒で、目を閉じて眠ったらそのまま二度と目を覚さないような気がするのだ。
 学校が早く終わる日は校庭も解放されないし、給食もないので、ロナルドは大体空腹に悩まされている。公園にある蛇口を捻っても、水は出てこない。水を飲んでうつ伏せになっていると空腹がいくらか紛れることをロナルドは知っていたが、かといって今はそれはできないのだった。
 象の形をした滑り台の下はくり抜かれドームのような形になり、ちょうど影になっている。すこしだるい体を引きずって、ロナルドはドームの中へと逃げ込んだ。中は外よりは影の分すこし涼しい。風が時折吹くと、汗で湿った首筋が冷えて気持ちがよかった。ドームにいくつか空いた穴からは木漏れ日が差し込んでいて、葉の影が風に揺らされるたびに変化して、見ていて面白い。
 時計の読み方を習ったのはずっと昔のような気がする。読み方がわかってから、ロナルドはいろいろなことを予測できるようになった。兄の帰ってくる時間、兄がいない時間、いる時間。公園の時計は一時四十五分を指している。兄がいる時間まではまだまだずいぶんある。
 ロナルドにとって、家以外の場所で兄を待っていることがどんなことを表現するのは難しい。嫌いではない。ロナルドを害するものなどどこにもいないから、家で横たわっているよりもずっと息がしやすい。かといって好きでもない。彼が兄を待っている時は、それ以外の時間に比べて、なんだか間延びしている。他のことをやっているよりもずっと長いような気がしていて、ロナルドはそれが不思議だった。一日を長く感じることはロナルドにとっては良いことではない。
 丸く切り取られた光に葉の影が薄く落ちている。ロナルドは何も考えずにそれをじっと見つめている。すると遠くから自分を呼ぶ声がした。ロナルドが家にいない時、かといって彼に行く場所などないので、大体この公園にいることを知っているのは兄だけだった。ロナルドが滑り台の下から上半身を出すと、公園の入り口に妹を抱えた兄が立っていた。白いシャツと黒いズボンを身につけている兄は学校帰りなのかも知れない。
 視界の端の時計は兄がいる時間ではないことを示していたが、ロナルドにはそんなことは関係ない。妹を抱いている兄のもとへと駆け足で駆け寄る。
 ヒヨシは自分に抱きつく勢いで駆け寄ってくるロナルドを塞がっている両手の代わりに片足で受けとめた。足にひしと抱きついてくるロナルドの勢いを殺しきれずに、兄はすこし体を揺らした。ヒヨシのズボンは日光で温められて、ロナルドでさえ暑いと感じる。
「ここにいたのか」
「うん」
 兄の声はいつも優しいので、ロナルドはそれが好きだった。優しい声は少しかすれて薄い。暑くなかったか、と聞かれたので、ロナルドは首を振った。暑いといって兄の手を煩わせることが嫌だったからだ。ロナルドの気持ちを知ってか知らずか、ヒヨシはそれ以上追求をしてこずに、そうか、と笑って、腕の中の妹を抱き直した。
「腹減ってるなら何か食べるか?」
 ヒヨシの言葉にロナルドは顔を上げた。兄がロナルドにそう言う時は、ヒヨシが母からお金をもらっている時だとロナルドは知っていた。
「オムライス食べたい!」
 言いながら、オムライスのことを思い浮かべると舌の奥がきゅうとなった。空腹であることをロナルドは思い出して、それから兄の様子も見ずにそう言ったことがよくなかっただろうかと一瞬不安になった。だがそれもヒヨシがロナルドの頭を撫でて笑ってくれたので、どうでもよくなってしまった。
 母から兄がお金を渡されるというのは稀だった。まず母が夜おらず、父親が家に帰ってくる前にヒヨシに母がお金を渡さないと、こういうことにはならない。二ヶ月に一回か二回あれば良い方で、そう言う時に三兄弟は決まって駅前のファミレスに行くのだった。
 ロナルドの日常のほとんどは家と学校の間で形成されているので、駅前に行くのは兄と連れ立っている時しかない。大人と子供が入り混じって、忙しなく歩いている駅前はロナルドにとっては目の回るような光景だ。
 公園までの道で迷ったことはないけれど、ファミレスまでの道をなぜかロナルドは覚えることはできない。だからヒヨシに手を引かれるのだが、それも好きなことの一つだ。兄の手は暑い外でもなぜか冷たかった。
 頼むものはいつも決まっていて、オムライスと、ヒヨシが良いといえばクリームソーダが飲みたかった。クリームソーダの上にのったアイスがなぜかしゃりしゃりしているのがロナルドは好きだ。メニューを広げながら、にいちゃん、あのさあ、と言うと、ヒヨシはロナルドが言いたいことがわかっているみたいに、クリームソーダなら頼んでもいいぞ、と言ってくれた。
 店員を捕まえて、淀みなく注文をする兄をロナルドはいつも尊敬の目で見てしまう。兄弟だけでご飯を食べるこの時間はロナルドの日常の中ではキラキラとした特別なものだ。
 ロナルドの目の前にオムライスがやってくるのと同時に、兄の目の前にも食事が並んでいる。大盛りのご飯と、一緒にだされた肉の量にロナルドは目を丸くする。兄は兄の同級生と比べてそれほど大きな方ではないが、食べる量は多い。しかも一口が大きく、がっつりと行くので、ロナルドが三分の一も食べ終わらないうちに、ヒヨシは自分の分を食べ終えてしまうのだ。
「俺もにいちゃんみたいになりたいなぁ」
 もたもたとスプーンでオムライスを口に運びながら、ロナルドが言うと、すっかりと定食を食べ終えたヒヨシは別に注文したキッズプレートのハンバーグをほぐして妹の口に運びながら、別にこんなものは見習わなくても良いんじゃ、と言った。
 ヒヨシがヒマリが満腹で眠りそうになるまでご飯を与えおわるのと、ロナルドがクリームソーダを飲み終えるのはほとんど同じだった。まだ外は明るいが、きらきらとした時間はこれで終わりだ。ヒヨシもロナルドも、当然妹も行く宛てなどないのだから、家に戻る他ない。
 ロナルドはファミレスで三人でご飯を食べる時間が本当に好きだったが、好きな分だけなぜだが帰りがもやもやして仕方がない。それがいつもとても不思議だった。どうして楽しいことの後は、楽しかったよりももっと嫌な気持ちになってしまうのだろうと考えると、時々何かを楽しく思うのが怖いと思う。
 ヒヨシがほとんど寝ている妹を抱えて席を立つのについていく。兄は一度家に帰ったのか、学校に行く時の黒い靴ではなくて、白いスニーカーを履いていた。レジの向こう側にたっている店員が、料金を告げると、ヒヨシはポケットから裸のお札を三枚だして、そこから一枚引き抜いてトレーにのせた。
 いちまんえんおあずかりします。店員が言う。ヒヨシはお釣りの札と小銭を裸のまま、また黒いズボンのポケットにしまった。
 涼しい店内から外にでると、まだむっと暑い。夜になるにはまだまだ時間がありそうだった。駅前にはほとんど街路樹もないのにセミの鳴く声がうるさい。
 帰りたくないと浮かびそうになる言葉をロナルドは頭を振って追い出した。そんなことを考えていても仕方ない。
 いつもであれば真っ先に歩き出す兄が、しばらく立ち止まっている。それが不思議でロナルドが兄を見上げると、兄はこちらをじっと見下ろしていた。それからゆっくりと口を開いて、ロナルドの名前を呼んだ。
「海に行かないか?」
「うみ?」
 なぜ兄がそんなことを言ったのかロナルドはよくわからなかった。それにロナルドは海に行ったことがない。学校の遠足で水族館には行ったことがあるが、それがテレビや本の中で見る砂浜に打ち寄せる波というものとはうまくつながらなかった。兄は海に行ったことがあるのをロナルドは知っていた。確か小学校の遠足で行った、その思い出話を聞かせてもらったことがあるからだ。
「なんで?」
 兄がそんなことを言ってきたことは今まで一度もなかったので、ロナルドは反射的にそう聞いた。するとヒヨシはロナルドと繋いでいた手を急に強く握る。力が込められたそれはロナルドには少し痛かった。
「母さん、しばらく帰ってこないんじゃと」
 家に帰りたいか? と続けて聞かれて、ゆるく首を振った。家に帰りたいと思ったことはないが、帰りたくないからといって帰らずにすむような家ではない。だから帰らなくてすむということをロナルドは考えたことがなかった。見上げた兄はゆるく笑っている。優しい笑顔だった。兄が笑っているとロナルドは嬉しい。
 ロナルドが首を振ったのを見て、ヒヨシは駅に向かって歩き出した。海に行くにはここからしばらく電車に乗らないといけないのだそうだ。兄と妹と三人で電車に乗ったことなどなかったから、ロナルドはドキドキした。バクバクと鳴る鼓動がうるさくて、なんだか体が落ち着かない。胸が痛いくらいだった。怖かったし、ワクワクしたし、兄がいるから何もかもが大丈夫だと自分に言い聞かせもした。切符を買って電車に乗ると、ドアがしまって動き出す。がたんがたんとロナルドが住んでいた町を引き離すスピードがなんだか気持ち良いし、同じくらい落ち着かない。
 楽しいことは恐ろしいとロナルドは理解している。楽しければ楽しいほど、次にやってくる嫌なことも大きい。妹を抱いて座っているヒヨシの隣に座って、窓の外を見ていると、だんだんと車内の人数が減ってきて、電車の中はがらがらになっていった。
 ロナルドは外を見ながら、なんとはなしに学校で今日あったことや、オムライスがおいしかったことなどを兄に話す。兄はそれを嫌な顔一つせずに聞いてくれるので、ヒヨシといるとロナルドの口数は自然多くなるのだった。普段は使わない頭の部分がぐるぐると回転して、身体中がクーラーの効いた電車内ですら暑く感じるほどだった。
 海と名のついている駅で降りてから、だいぶ歩くとやがて海水浴場についた。夏休みもはじまらない時期はまだ泳ぐような時期でないのか、人はあまりいなかった。
 ヒヨシに手を引かれながら、現れた風景にロナルドは驚いた。肌色をした砂浜の向こうには青と緑の混じったような色の海があり、波が絶えず音を立てて砂浜に打ち寄せていた。海の向こうはどんどんと色が濃くなっていき、空と繋がっているようにロナルドには思えた。太陽の光が目の届く限り向こうまで続く水面をきらきらと光らせていて、その光がちかちかとロナルドの目を刺した。
 ロナルドの隣で、兄もぼんやりと立ち尽くして海を眺めている。
「きれいじゃなあ」
 奇妙に力の抜けた響きで、兄はそう呟いた。ロナルドは初めて見た海を表現する言葉を持っておらず、きらきらしている、という程度の言葉しか思い浮かばなかったが、兄がそう言うと、なるほどそうだなと思った。海はとてもきれいだった。
「そうだね、にいちゃん」
 なんだか嬉しくなってそう答えると、その様子を見て兄は笑ったようだった。しばらく砂浜に続くコンクリートの階段の上で立ち尽くして海を眺めていた。しばらくすると兄はロナルドと手を繋いだまま、砂浜をざくざくと歩き始めた。
「にいちゃんと」
 良いところに行かんか。
 兄は突然そう言った。ロナルドは兄の歩幅の大きさについていくのがすこし大変で、引かれた腕が痛かった。見ている分にはきれいだった砂浜は歩こうとすると足がずぶずぶと沈んで転びそうになる。
 良いところ、と足を取られながら、ロナルドはぼんやりと兄の言ったことを脳裏で繰り返した。ロナルドは兄が好きだった。兄はロナルドといる限りいつも優しかった。ロナルドがすこし残念に思っているのは、ヒヨシが家にいる時間がほとんどないということくらいだった。だから兄がいれば優しい時間だし、良いところだ。今だって、完璧に近いくらいだ。しあわせ、と、いう言葉があるしたら今なんじゃないかと思うくらいに。
 これ以上良いところが、あるのだろうか。ロナルドは少し不安になった。そしたらきっとその後にやってくる恐怖は相当のものだろうと思ったからだ。もしも良いところに行くのなら、ロナルドは帰りたくはなかった。けれど兄が誘ってくれるのならばロナルドはどんなところだって行きたかった。
「いいところ?」
 それはどんなところなのだろう、とロナルドは思って、兄の言葉を繰り返した。繰り返した後で、似たようなことを昔に言われたような気がして不思議な気持ちになった。ロナルドはあまり物覚えがよくない。嫌なことは忘れていたいし、彼の生活にはその類のことが多すぎる。
「らくになりたい」
 兄の言葉は答えになっていなかったが、ロナルドは別にどうでもよかった。兄の言葉は時々ロナルドには難しくてよくわからない。だから、ロナルドはヒヨシがどうして家にほとんどいないのかも、理解しない。
 そういう風に決めたからだ。
 兄の進んでいく先の、穏やかな波の打ち寄せる濡れた砂浜を見ながら、もしここで「うん」とうなずいたら兄と妹と三人で死ぬのかな、とロナルドはぼんやりと考えた。だがそれは家に帰らなければならないことに比べたら、随分と苦しくないことのような気がした。毎日夜中にやってくるお化けに怯えなくてもすむ。
 本当はロナルドだって、あれがお化けでないことくらいはわかっている。わかっているけれども、押入れから引きずり出された後のことがいつも途中でわからなくなってしまって、すっかり忘れてしまった記憶の残りをつなげて、あれはお化けだったのだと思ってしまう。思い出してはいけない気がするので、ロナルドはいろんなことを覚えておかないし、思い出さないようにしている。
 波が打ち寄せている砂浜は濡れて、泡立った白波がロナルドの足にかかる。ヒヨシの靴が濡れて、ズボンの裾がいっそう黒くなった。
 でも、うみはいやかも、とロナルドはぼんやりと思った。こんなに暑いというのに、ロナルドの足にかかった海水は驚くほど冷たい。それに多分、水の中で溺れるというのは苦しい。
 経験があった。仰向けに水の中に沈められると、水面がわずかな灯りに反射してきらきらとする。視界の端がだんだんと白くなっていて、虹色の欠片が飛び交う。自分の手足が勝手に暴れて、さらに波紋を描いて、光が揺れてもっと綺麗になる。
 だんだんと手足が動かなくなってくると、なんだか頭がふわふわして気持ち良くなってくるのをロナルドは知っている。それまでが苦しいけれど、最後に楽になることを。
 ロナルドは兄が好きだ。その兄がらくになりたいと言っている。嫌だけど、でもいいかな、とロナルドは思った。それに海は、家のお風呂場よりもずっと綺麗できらきらしている。中を覗いたらもっと綺麗かもしれないし、兄が自分の手をずっと握ってくれるなら大丈夫かもしれない。
 ロナルドがそんなことを考えている間にもヒヨシは迷いなく波をかき分けて進んでいく。本当に知らないところに行くのだという気がして、そしてそこは決して帰らないですむ場所なのだと思うと、良いこととしか思えなくなってきた。
 波が泡を立てるのをやめて、大きなうねりが打ち寄せるだけになってくる。時折ロナルドの頭を超えた波がやってくるので、ヒヨシは片腕でロナルドを抱き上げた。海の中で感じる兄の体温が暖かくて、ロナルドは小さく笑った。なぜだか嬉しかった。
「にいちゃんと一緒だったら苦しくないかな?」
 単純な疑問だった。疑問ですらなく、それはロナルドの中ではほぼ事実と変わりなかったのだけれど、ヒヨシははたと立ち止まった。音もなくおおきなうねりがやってきて、それが三人を一瞬完全に海に沈めた。ロナルドは驚いて目をつぶってしまったので、海の中を見ることはできなかった。ヒヨシの腕の中の妹は、それでも起きない。
「かえろう」
 冷たさで震えた声で、兄はそう言った。ロナルドは兄の震えている首筋に頭をもたせかけながら、うん、と答えた。兄が行こうというならばロナルドは共に行きたかったし、帰ろうと言うのならば置いていかれたくはなかった。
 砂浜までとって返して、海からでると濡れた服はなんだか気持ち悪かった。駅までの道のりにあったスーパーで、ヒヨシは適当に服を買って、ポケットに入ったままのお札で支払いをした。濡れた札も、海水浴場の近くではよくあることなのか大して嫌な顔もされない。店員に近くに銭湯がないかを兄が聞くのをロナルドはぼんやりと聞いていた。
 兄と大きな風呂に入るのは初めてで、海水よりもよほど気持ちが良い。さきほど海であったことについてヒヨシは何も言わなかったし、ロナルドも何も聞かなかった。起こったことについて、どうしてそれが起こったのかを聞いても仕方がないことをロナルドは知っている。大体ロナルド自身には理解が及ばないか、理由がないかのどちらかだからだ。お風呂上がりに食べたアイスが美味しかったことは覚えておきたいと思ったが、自信はあまりなかった。
 帰りの電車ではすっかりと眠くなってしまい、最寄駅についた時にヒヨシに揺り起こされた。少し前まではロナルドを抱えて移動をしてくれたが、ロナルドも育ってしまったし、妹を抱いていてなおロナルドを抱えるのは難しいのだろう。
 あっという間に帰ってきてしまえたことにロナルドは驚く。良いところ、まで、あと一歩。指先が触れたと思っても良いくらいだったのに、今はもうお化けの出る家に帰るしか道はないのだ。
 駅から左へまっすぐ。坂を登って右手の路地へ、曲がりくねった袋小路に家はある。二階建ての二階の、階段のすぐそばのくすんだ緑色の金属のドアがロナルドの家だ。
「ヒマリ、抱いててくれんか」
 ヒヨシが扉の前で突然そう言って、ロナルドに妹を預けた。ずっしりとした重さと奇妙な柔らかさは、けれどロナルドにとっては馴染みのものだ。
 いつもは鍵がかかっているドアに鍵を差し込むことなくヒヨシはノブを回す。それから玄関に入っていくのにロナルドはついていく。
 家の中は奇妙なくらい静かだった。いつもだったらもっとうるさいのに、誰もいないみたいだった。そんなことは今まで一度だってなかったので、ロナルドは驚く。今日は何にせよ驚くことが多い。
 妹を床に一度置いて、靴を脱ぎ、もう一度寝ている妹を抱え直して台所に行くと、兄は真っ暗な和室と明かりのついた台所の合間に冷たい表情で立ち尽くしていた。
 台所の床では父親がお酒を飲んでいるときのようにうつ伏せになって倒れ伏していた。ぐるりと見渡すと、つるりとした床中にのたくった血の痕があった。玄関に向かって逃げようとしたように、血の痕は和室側から蛇行してロナルドが今立っている場所に向かう軌跡を描いていた。
 ロナルドは妹を抱えたまま、冷たい表情で立ち尽くす兄に駆け寄った。すると暗い和室の突き出した梁に、人がぶら下がっていた。それが母だとすぐ分かったのがなぜなのかロナルドにはわからない。母親の足元には椅子が倒れており、そのすぐ近くには包丁が落ちていた。
 兄は何も言わなかった。だからロナルドも何も口にしなかった。人間が死ぬと物のようになることをロナルドは今まで知らなかった。生きていた頃の父や母が、この部屋の床にうつ伏せで冷たくなっている「もの」と、ぎしぎしとわずかに揺れるぶらさがった「もの」になってしまったのが当然のような、不思議なような、奇妙な安堵に襲われた。
 兄は何も言わずに、父親の横で、落ちて受話器が外れている電話を持ち上げて、一度受話器を戻した。それからゆっくりとボタンを押す。警察に電話をしているのだとロナルドが気づいたのは、ヒヨシが電話口で話し出してからだった。
 ロナルドの腕の中で、妹がぐずったように泣き出した。その声が、なんだか蝉の鳴き声によく似ているような気がして、それがひどく不思議でならなかった。
            
「よう寝とったの」
 水の中から引き上げられるように意識が覚める。ロナルドはまだぼんやりする頭をはっきりさせるために、二、三度瞬きをした。
「兄貴」
 来てたのか、と口に出すと、声が随分とかすれていることに気がついた。本当に大分寝ていたのかもしれない。処置を受けている間も意識はあったので、緊急連絡先として連絡がいったヒヨシが駆けつけてくれてすこし会話をしたところまでは覚えているのだが、流石に点滴を入れられたところで意識を失ってしまったのだろう。
 今は日中のようで、病室の窓から差し込む光は明るい。そういえばドラルクに連絡は行ったのだろうか。救急車で病院に運ばれてからどれくらいの時間が立っているのだろう。
 昔の夢を見ていたな、とロナルドはぼんやりと思う。幼い頃の夢をロナルドは比較的よく見る。よく見るが、その内容まで覚えていることは少ない。今は普段と違う状況だからか、それなりにはっきりと覚えているのだろうかとロナルドは考えた。視界の端にある点滴が自分の腕に刺さっているのが見える。
「眠いならもう少し寝とっても良いぞ」
 どうせしばらくしたら事情聴取もあるしな、と付け加えられた。
「……うん」
 ロナルドはヒヨシの言葉に逆らわずにうなずいた。ヒヨシがロナルドの病室にいるのは、職務半分見舞い半分と言ったところなのだろう。自分の頭を撫でるヒヨシの仕草がなんだか懐かしいとロナルドは思う。
 きらきらとひかる海の幻を、ロナルドは好んでいた。あれはロナルドにとって輪郭の淡い美しい記憶だった。あの時の兄は一体何を考えていたのだろう、今の兄はあのときのことをどう考えているのだろう。ロナルドは眠気に負けつつある意識の合間に何かを言おうとした。次に目を覚ましたら、今夢に見た過去のことを思い出せない気がしたからだ。
 けれどもそれは言葉にならない。ならなくても良いことなのかもしれないとロナルドは溶ける意識の隅で思った。

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