52ヘルツの鯨は本当に寂しいのかというドラロナ。多分両片思いだった。
52ヘルツの鯨
「そんなに寂しいことなのかなあ」
寝付けない夜中にモニターでゲームをやりたいドラルクを押し除けたロナルドがサブスクライブの配信フォーマットを見ながらそんなことを呟いた。思わず漏れた独り言という風だったので、ドラルクはその言葉に応答するべきか悩んだ。
ドラルクはロナルドのせいで急に出来た暇を持て余している。ローカロリーの夜食を作るなり、気を取り直して携帯ゲームをするなり、ソシャゲの周回をするなり、明日の食事の仕込みをするなり、明日陽が登っているうちにロナルドに回してもらうための洗濯物を仕分けたり、つまりすることはたくさんあったのだが、どれにもそれほど気が乗らずドラルクがやりたいことを押し除けてまでロナルドが見たい番組に興味を引かれて、ソファに座って一緒に見ることにした。吸血鬼退治人の夜がいくら遅いとはいえそろそろ寝てもおかしくない時間帯ではあったが、背もたれも倒さないところを見るとまだ眠る気はないのだろう。ロナルドは体を少しだらしなくソファの背にもたせかけて、ぼんやりと色合いを変化させるモニターを見ている。
「クジラの鳴き声ってなんか人の声みたいじゃね?」
昔の人がセイレーンがいたって思い込むもわかるつーか、とドラルクが返答する前にロナルドは話題を変えた。さきほどのものは本当にただ思わずぽつりと漏れた感想にすぎなかったのだろう。ロナルドはドラルクを、彼にしては本当に珍しいことに押し除けたくせに、大して見たい番組もなかったようで、ドキュメンタリーのカテゴリから動物の生態を探るような番組を見ていた。
頭を使わないし、感情を揺さぶられないし、見ていて綺麗だし、時々見たくなる、とロナルドが言っていたのをドラルクは覚えていた。隣でゆるく腑抜けたように座るロナルドは、つまり本人はあまり自覚していないが、どうにも疲れているのだろう。そういう時ドラルクは、彼が文筆業に携わるだけの、なにかしらの感受性を持っているのに感心することがある。普段は幼児のように単純な喜怒哀楽とチョロさを遺憾無く発揮しているくせに、妙なところで穴に落ちるように複雑さが垣間見える。
「夜の海で聞いたらすこし怖そうだよな」
ドラルクはロナルドの言葉を受けて、テレビ画面に目をやる。ドキュメンタリーの主な内容はクジラの生態らしく、今は彼らがどのような海流にのって世界を泳ぎ回っているのかと美しい映像とともに字幕で説明されていた。クジラは世界で最も大きな声で鳴く動物の一種で、その鳴き声は海中を広く伝う。海中に沈めたマイクで拾うその声を、歌っている、という人間がいる程度にはその鳴き声は確かに人間じみている。霧深い海を、まだ北極星を頼り、帆布を張って船が走っていた頃、波のぶつかる音と共に岩場にも見える鯨の体が海面から突き上がり、その声が聞こえたら、確かにそれは恐ろしく艶やかな魔物の声にも聞こえるかも知れない。人間はそこにいないものを見るのが得意な生き物だ。
ロナルドがいかにも考えそうな想像力を己が羽ばたかせてしまったことにドラルクは幾分か苦い気持ちになった。いつのまにかこの人間に影響を受けていることを、拾い上げるのはどうにも苦手だった。逆ならば全く構わないのだが、ドラルクがいるせいでロナルドが変化したことなど、せいぜい舌が肥えたとか、そのくせ美味しさを表現する語彙が追いついていないとか、きちんと栄養をとるようになったのでいくらか血が美味しくなったのであろうとか、なぜか事務所に転がり込んだ当初より子供っぽくなったような気がするとかそんな程度で、最後に至っては自分が親のようにロナルドの面倒を見てしまうことになったからなのだろうかと不思議に思っているくらいだ。
「確かに夜中にこんな声がしてきたら、君はお化けと勘違いして死ぬほど怯えてそう」
当たり障りのないコメントを返したつもりだったのに、比較的疲れているだろうロナルドのやる気のないパンチが飛んできて死んだ。もはや瞬きをするくらいの気軽さではないだろうか。ロナルドはドラルクの方を見てもいない。
「っていうか何が寂しいって?」
その態度にむっとしたので、ロナルドが意識もしていなかっただろう独り言に突っ込むことにした。ロナルドがふと溢す独り言は、彼の精神のどうにも柔らかい部分に繋がっていることが多く、ドラルクが深く追求をすると彼は最初は何を問われたか分からないようにしばらく問答に付き合うのだが、最終的には自分の自覚していなかった願望にぶち当たって自爆するのをよく見ることになった。そう仕向けるつもりだった。
ロナルドはドラルクの言葉に、一瞬訝しげな顔をしてから、先ほどの自分の独り言に思い当たったらしく、ああ、と気の抜けた相槌を打った。
「クジラって種類によって鳴き声の周波数が違うらしくて、で、どの種類のクジラも鳴かない周波数のクジラが観測されてるっていうの今やってただろ」
「ああ、そうだったかも」
それほど熱を入れて見ていたわけではなかったが、確かにそんな内容が流れていたような気もする。そもそもクジラの鳴き声が番組で流れたのも、その研究内容に触れてのことだったかもしれない。
「それで、そのクジラの声に応えはないのに、ずっと観測され続けてるってやつ」
「ああ、クジラって確か、血縁とか種類によって周波数が微妙に違うんだっけ? たった一頭しか観測できてないなんて、なんかそれって」
いかにも人間が好きそうな話じゃないか、と続く言葉をドラルクは飲み込んだ。時折そこにある現実が物語をあまりに強く帯びて存在していると、人間はすぐにそこに共感を見出したがる。クジラの声にかつてセイレーンの幻を見たように、今は誰も応えない場所に声を投げかけ続けるクジラに叶わない祈りを捧げ続ける切迫でも見出すのだろうか。
「それが寂しいって?」
ドラルクは嘲笑にも近い言葉を口にする代わりに、ロナルドが漏らしたことを繰り返した。ロナルドが思うにしては随分と陳腐なことだとも思ったし、逆にそれは素直な彼らしい感想とも言える。ロナルドはドラルクの言葉に少し眉根を寄せて表情を陰らせた。自分が今何を感じているのかについて適切な言葉が浮かばない時にする表情だ。原稿中もよくしているし、ドラルクの料理を美味しいと思いはしたが褒めたくない時にも浮かべている。
「いや、確かにテレビではそういう感じだったけど、でもどうだろうなと思って」
「そのクジラはその周波数で話す最後の一匹で、仲間をずっと探してるのかもしれないだろう?」
実際のところは分からないが、監視システムで観測されたその声を多くの研究者たちはそう判断しているらしい。どんなクジラが鳴いているのかはわからないのに、どこにも届かない声だけが海中を漂っている。
「クジラが本当にその鳴き声でしか鳴けないのかもわかんねぇじゃん。なんだったら、誰にも届かない場所で、好きに自由に歌ってるのかも」
伝わらないからこそ言えることもあるじゃん、となんでもないようにロナルドは言った。ドラルクはロナルドが言い出したことに、少し意表をつかれて一瞬押し黙る。
「……伝わらない言葉に意味なんてあるか?」
全ての書物は誰かに届けるために書かれる。全ての言葉は誰かに投げかけられる為に音になるし、全ての歌は誰かの耳を震わせることを夢見ている。誰も待っていなかったら、ロナ戦を書き続けるなどロナルドはしないだろうし、ドラルクだって見ている誰かがいるから配信をする。
「そりゃあるだろ」
だがロナルドは即答した。ロナルドの視線はテレビに向けられたままで、その瞳は番組に集中しているというほどでもない。彼が自覚していない疲弊によって少し輪郭が滲んで見える。
「……心当たりでも?」
あまりにもはっきりとした返答だったので、ドラルクは少し迷ってからロナルドが考えていることを吐き出すように水を向けた。ロナルドは一瞬だけ瞳を揺らめかせたが、変化はそれだけだった。ソファの肘掛に肘をついて、頭が重いとでもいうように頬杖をつく。
「……俺が死んだらお前に言おうかな」
誰にも届かない周波数で、クジラが歌うように、彼の言葉が空中を漂う。
「君が死んだ後? 私には魂の声なんて聞こえないぞ、死後の世界も大して信じてないし」
「だから言うんだろうが、さっきの話聞いてたか?」
ロナルドは自分がここまで話してしまったことを失敗だとでも思っているのか、不機嫌そうに言葉を続ける。どうにか話を切り上げようとしているのがドラルクにもわかった。
「今言っちゃったんだから、もう半分くらいは伝わってる」
だが彼の言葉はクジラの歌にはもうなり得ない。
「それにどうせ君だって、自分が死んだ後にそんなことができるなんて思ってないだろう」
なぜか自分の声は焦燥に駆られているとドラルクは思った。不思議だった。ロナルドに独り言に水を向けたのは、彼を慌てさせたいからだったのに、自分がそうなっている。ロナルドは、当たり前だろう、とでも言うように少し笑みの気配が残るため息をつく。
「だから、そうだな、そうできたらって話だな。お前はきっと俺が何を伝えたのかわからなくて、ずっと考え続けるんだよ」
はは、と笑いをロナルドが溢す。そんなことを望んでもいない乾いた声だ。
「私は享楽主義の吸血鬼だぞ、そんなことすぐ忘れるに決まってる」
言いながら、そんなことは到底無理だと言う確信があった。ドラルクは確かに享楽的な吸血鬼だ。楽しさを第一に、いつも面白いことを探している。けれど彼はそれと同じくらい自分の執着を知っていた。
ロナルドはドラルクの答えをわかっていたように、何も応えなかった。
「君は間違ってる」
強く言い切ると、ロナルドは今度こそはっきりと不快そうに目を眇めた。
「なんだよ、全部想像の話だろ」
ムキになるなよ、とドラルクを宥めるロナルドに、こんなのはいつも全く立場が逆じゃないかとドラルクは怒りにも似た衝動を覚える。
「そのクジラの声は結局潜水艦の監視システムに拾われた。こうして君の耳に届くまでになった。吸血鬼の耳は良いんだ、君が聞こえないと思っているそれだって、聞こえるかもしれないだろ」
自由に歌っているかもしれないと自分で言ったくせに、誰にも届かない言葉を口にすることに喜びを見出さない目をしているのが気に触ったのかもしれない。もしもロナルドが言うようにクジラが誰にも聞かれぬ歌を自由に歌っているのなら、それを寂しいと定義されることに疑問を抱くなら、彼だってもっと楽しい表情を浮かべるべきだった。そうすればドラルクだって、こんな風には声を上げたりしなかった。
全くロナルドに影響されて自分が変わっていることを知らされるのは悔しかった。どうせ彼が自分に影響されて変わったことなど、大したことではない。どうにか大人になろうと立っていた人間の虚勢を、ドラルクは剥がしただけだ。ロナルドを害することはできないと証明し(それは自明のことだったので本当は証明などする必要はなかった)、わがままを通すことで彼のわがままを受け止める場所があることを示し、ロナルドはいつのまにかそれを受け止めて随分と子供のような振る舞いをするようになった。
因果関係がわからないなど己への言い訳にすぎなくて、彼がそうなったのは自分がすっかりと彼の内側に入り込んでしまったからだと気がついていた。彼の振る舞いや生活が、自分の存在が前提となって変わっていくたびに、喜びを覚えていることも。だからロナルドが、ドラルクが彼に触れるたびに少し体温が上がるのも、鼓動が激しくなるのも、気がついていた。吸血鬼は耳が、人間より大層よくできているから。
「そしてもしもそれが君が死んだ後に私に届くなら、君が伝えたいことはどうせ伝わるんだから、今言ったっていいじゃないか」
ドラルクは自分の声音が性急に切迫に響いているのをどうにか和らげたかったがそんなことは無理だった。届かない願いを捧げているような気持ちだった。そんな風に感じてしまうのは、絶対に今目の前でぽかんとこちらを見ているロナルドの影響に決まっている。
「……往生際が悪すぎるぞ、ドラ公」
ぽつりとロナルドが独り言のようにそう言った。
「それは多分お互い様だと思うけどね」
ドラルクは心臓の鼓動が喉の奥、舌の付け根あたりをうるさいほどに震わせているのを感じながら独り言のように、多分に負け惜しみの感情を含んで応える。