マニキュアを塗る吸血鬼ロナルド君に、マニキュアを塗ってもらうダンピールドラルク

マニキュアの塗り方

 ロナルドの爪は形良い。この男はどこもかしこも整って出来ている。ドラルクの手指はほっそりとしていていかにも優美だとドラルク自身自負しているが、ロナルドの指は男らしく骨張っている。かといって無骨と思うには掌に対して指が長く、骨張っているのも手伝って知的にすら感じられる。もし仮に神と言うものがいたとして、生きているものを形作っていたのならば、彼は相当に時間と手間をかけられて作られたのであろう。もっともドラルクは神など信じていないので、ロナルドという存在のバランスが何もかも外見上整っているのは、DNAの配列がうまく行ったからに過ぎないと知っている。それはそれで奇跡的なことではあるが。
 今日の朝まで随分と長く雨が降り続いていたのだが、今日は珍しく晴れていた。ドラルクは官舎に住んでいるため、寮時代と比べて随分と広い3LDK+バルコニー付きの部屋を割り当てられている
ロナルドの監視任務にあたって広い官舎へと移った上に、築年数はそれになりだがリフォームもされているため、洒落たアイランドキッチンの三口コンロなどもあり、料理が趣味のドラルクとしてはかなり満足している。ただし、この官舎は県警本部からはかなり遠いし、ドラルク以外に住んでいる人間もいない。その割にはセキュリティシステムは充実している。とはいってもそれは侵入対策を万全にしているというよりは、外から中に出るセキュリティの方が厳重になっていると言ったほうが正しい。
 要はそう見えないだけで、ここは体の良い監獄のようなものである。
 とはいえ普段は意識もしないし、ドラルクはそんなことほとんど忘れている。自分たち以外に誰もいないのは、夜中に映画をみて声をあげようが、早朝にうなされるロナルドのダンピールの可聴領域を軽く超えた叫び声を宥めようが、あるいは隣人のいる官舎なら壁の薄さが気になることをしようが、誰にも咎められないのだから良いものである。体の良い牢獄が、GPSと外側からのセキュリティシステムだけなのは感謝している。部屋の中の監視と盗聴については、さすがにプライバシーを主張した。ただでさえ24時間365日、労働基準法ぶっちぎりの任務をさせている自覚のあるらしい上司がそこは取り計らってくれた。役職がつくというのは面倒くさいことも多いが、たまには役に立つ。
 そんな不穏で平穏な休日の昼間に、ロナルドは日向ぼっこする猫よろしくバルコニーに続く窓のそばで、端正に作られたとしか思えない爪に赤いマニキュアを塗っていた。真四角のウッドテーブルの上にマニキュアをのせて、慣れた仕草で塗っている。ドラルクはそれをリビングのソファでコーヒーを飲みながら見ていた。コーヒーカップを持つ自分の爪の根本が少し伸びているのをドラルクは見つけて、わずかに憂鬱な気分になった。
 吸血鬼とダンピールと人間で最も代謝が早いのは人間だ。ダンピールと人間の差はわずかしかないが、吸血鬼と、人間やダンピールとなるとかなり違いが出てくる。ロナルドが眠そうに目を瞬かせながら(本来なら吸血鬼が寝ている時間なのだから、当たり前だ)器用に塗っているネイルはドラルクの物だが、ドラルクが使う頻度とロナルドが使う頻度ならば確実にドラルクの方が多い。足と比べても指の爪の伸びは早く、ドラルクの肌の色はダンピールにしてはかなり吸血鬼に近いので、紫色と土気色の間を彷徨っている自分の爪の色を見ると、なんとなく美しくないなあと思う。
 自分よりも尖った爪がゆっくりと伸びるロナルドの肌色は、人間の中に置いてもかなり健康的に見えるので、二人並んで立っているとたまに勘違いされることがある。ロナルドの尖った耳が帽子で隠れていて、珍しく口を閉じて大人しくしていると、大体初対面の人間はドラルクこそが吸血鬼で、ロナルドはただの人間だろうと接してくることが多い。ある程度必要に駆られてマニキュアを塗る自分の方が爪の伸びが早くて、特に必要ないだろうロナルドの爪の伸びの方が遅いとは、世の中はうまくいかない。
 ロナルドは器用に爪を塗っている。あまり器用とは思えない彼だが(そもそも彼は自分の力の加減さえうまく出来ていない時がある)ネイルを塗る手は滑らかだ。利き手という概念が存在しないのか、右手の指も左手の指もはみ出さず、ムラなく、塗る。とはいえ、彼は乱暴者なので、赤いネイルは指先からはげてしまうことが多いのだが。
「ロナルド君って意外に器用だよね」
 コーヒーカップを片手に、そう言いながらロナルドの座っているウッドテーブルの、空いている片方の椅子に座った。ロナルドは自分の爪から目を離さずに、そうかあ、と眠たそうに答えた。
「吸血鬼っぽいだろ、たくさん練習させられたんだ」
 だからこれだけは得意、とロナルドは続けた。
「っぽいもなにも、君は吸血鬼だろ」
 ロナルドを保護していたのはドラウスだから、彼が教え込んだのだろうかとドラルクは思ったが口には出さなかった。ロナルドがドラルクに出会う前にどんな生活をしていたのかドラルクはあまり知らないし、ドラウスに聞くにもどうにも彼のドラルクに対する対応は熱のありすぎるもので、うまくあしらえないので聞けていない。興味はあるが、面倒臭さを押して出向くほどでも、聞くほどでもない。したがってドラルクはロナルドが吸対に捕縛される前のことを、ロナルドが語る以上には知らない。
「そうだけど、本当は別に塗らなくていいだろ。俺、血色いいもん」
 ドラウスと比べたってさ、とロナルドは言う。
「でも塗ってる」
「吸血鬼のマナーだって教え込まれたからだろうな」
 右手で左手の指を塗る時も、左手で右手の指を塗る時も、ロナルドの手捌きは淀みない。両手の指、十本を塗り終えて、ロナルドは器用にネイルの蓋を閉じる。溶剤の匂いがきついので、ドラルクは立ち上がってバルコニーに続く窓を開け、また元の位置に戻った。
 ロナルドは両手の指を十本揃えて、日の差すウッドテーブルの上へと並べている。まだ乾ききらない濡れた表面が、艶やかに赤く光っている。ドラルクはロナルドの指と自分の指を見比べて、いいことを思いついたように笑った。
「そうだ、君のそれが乾いたら、私の指に塗っておくれよ」
 きっと綺麗にできるだろう、と続けると、ロナルドは少し眉間に皺を寄せた。
「いいけど、どうなっても知らないぜ」
「他人の指に塗る方が、自分の指より簡単だろう?」
 そう言うと、ロナルドはウッドテーブルの上に指を開いて載せたまま、眉間の皺をさらに深くした。窓から当たる陽光が彼を照らして、ドラルクは本当にこの吸血鬼は何もかもが整ってできているなとまた思った。

「冗談だろ? ロナルド君、わざとやってるわけじゃないよね?」
「だから言っただろ、どうなっても知らねーって」
 ロナルドの爪が乾くまでの間にドラルクはコーヒーを飲み終えて、自分の指のネイルをすっかりと落とし終わった。ロナルドの爪が乾いた頃合いに、彼はうやうやしくドラルクの手を取った。ドラルクはダンピールであるが、かなり吸血鬼に近い体質なので、ロナルドの手はいつもドラルクと同じくらいの温度をしている。
 お前の爪、長細いなあ、とロナルドは少し困ったように呟いて、瓶の口で刷毛を片面だけしごく。爪の中央部分から迷いなくすっと伸ばして、両端、爪のエッジへと、彼が自分の爪を塗る時と変わらぬ順番で行われたそれは、ロナルドが己に施すものよりも遥かに無様なものだった。指先の震えが刷毛に伝わり、縒れたネイルは爪からはみ出して無残なものだ。
 ドラルクは予想外の出来事に言葉を失ったまま、左手が終わるまではロナルドの動向を見守り、右手に取り掛かろうとするところでストップをかけたのが今し方である。
 ロナルドの指先と、今自分に施された指先は同じ人物がやったと思えない雲泥の差がある。
「他人のはやりにくい、俺、自分の爪しか塗ったことねぇからさあ」
「自分のしか塗ったことないの?」
 もはや自分でやったほうが早いだろうと除光液をコットンに染み込ませて、よれよれの爪先を拭いながらドラルクはそう聞いた。ドラルクの質問にロナルドは首を傾げてから、随分と考え込んだ。
「……まあ、覚えてる限りではな」
「ロナルド君の記憶ってあんまり当てにならないけどね」
 どうにもこの吸血鬼は記憶の保存がポンコツなきらいがあるのだ。そうつつくとロナルドは少し嫌そうに目を眇める。
「私は君の爪、綺麗に塗れる自信ある」
 たまにやってあげてるでしょ? と言うと、ロナルドは頷いた。繊細な作りをしているわりに行動の端々が乱暴な吸血鬼の指先から欠けるマニキュアを直すのは大体ドラルクの役目である。好きでやっていることでもあるのだが、それは今は言わなくても良いことだ。
「君が私の爪を塗れないのは、不公平じゃない?」
「不公平かあ? お前、俺に爪塗れって言ったことないじゃん」
「今言っただろ、それで君の不器用さ…逆に器用なのか? が発覚したんじゃないか」
 ドラルクはとろりとした赤い液体の入った瓶をロナルドに押し付けて、練習しなよ、と軽やかに言った。
「練習?」
「君は自分の爪を綺麗に塗れるんだから、私の爪だって綺麗に濡れるようになるさ。いくらでも練習台になってやろうじゃないか」
「さっきまで、嫌がってたくせに」
 気が変わったんだ、とドラルクは拗ねたように口を尖らせるロナルドに答えた。
「君が自分の爪の塗り方を教わったように、今度は他人の爪の塗り方を教えてあげるのさ。ロナルド君に最初に教えた誰かさんは、君が人とこんなことをするなんて微塵も考えてなかったみたいだからね」
 それに君が初めて塗った他人の爪が、私というのは悪くなかった、と言うと、ロナルドは目を細めて呆れたように、バカじゃねーのと呟いた。けれどもロナルドはマニキュアの瓶を離しはしなかったので、ドラルクは満ち足りた気持ちで微笑んだ。

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