怪我する吸ロ君

 神奈川県警吸血鬼対策課は竜の一族とのコネクションが出来たことを大層使えると判断している。これはドラルクにとって喜ばしいこと半分、煩わしいこと半分だ。吸血鬼ロナルドの、吸血鬼の領域における後ろ盾が竜の一族当主であると発覚したのは、今年の春のことである。新横浜は全国有数の吸血鬼のホットスポットだ。したがって、新横浜の吸血鬼対策課の忙しさは他の地域の比ではない。もちろん退治人の数も多いし、名を馳せている退治人はみな優秀だ。吸対と退治人の連携は地域によって差があるが、新横浜は全国でも随一に連携が取れている地域だろう。
 そんな地域だとしても、あるいはだからこそ、吸血鬼の領域における竜の一族のネームバリューを利用できるのであればしたいと上層部は考えている、らしい。らしい、というのは、ドラルクはあまり出世には興味がないので、彼らが何を考えているのか大して興味がない。確かにドラルクは全国で有数の吸血鬼のホットスポット、新横浜の吸血鬼対策課の一番戦積をあげている隊の隊長である。そもそも吸対は、警察官採用育成過程の中でもかなり特殊な形態をもっており、試験も通常の警察官の採用制度とはかなり異なる。年齢経歴よりも実力才能を掬い上げる部署だ。スカウトなども適宜行っており、元退治人が吸対に入ってくるのも珍しいことではない。
 ともかく、実力と才能が何よりも重用される新横浜の吸血鬼対策課は、高等吸血鬼との遭遇率も高い。その中で、人間に比較的友好的、かつ強大な力を持っている真祖が〝生きている〟竜の一族は人間側としてぜひ手を結んでおきたい相手でもあるだろう。そもそも吸血鬼というのは長い時を生きる気まぐれな生き物だ。だからこそ、契約を違えない性質を持っている。強大な生き物には、それが世界のルールというように、なんらかの枷があり、それを利用するのが持たざる弱者のささやかな知恵である。
 竜の一族の真祖や、現当主に比べれば、ダンピールのドラルクやその他の人間など、吹けば飛ぶただの塵にすぎない。それを吸血鬼ロナルドを風穴にして、うまく事を運べ、と上からそれとなく匂わされるのがドラルクは大層億劫だった。そんなことをしなくても、人間とダンピールの世界はそれなりに平和である。吸血鬼が起こす事件だって、人間が人間を害するのと頻度は違わない。つまり頻繁に起きると言うことだが、いまさら悲観するようなものでもない。
 それに吸血鬼たちは、どんなにこちらに友好的だとしても、人間を守らない。よほどの例外でもない限りは。そんな持論を脳裏に展開しながら、ドラルクはロナルドに「おかえり」と言うために開けた玄関のノブを握りしめながら絶句していた。
 ロナルドの隣で、「あ」と声を発したまま、固まってしたドラウスの方へ、軋む首をなんとか動かした。
「これは」
 いったいどういうことですか、という疑問はドラウスの突然の抱擁に遮られた。
「ごめんねぇ、ドラルク! 私は止めたんだけど」
 泣きの入った謝罪に困るのはドラルクの方だった。竜の一族当主であるドラウスは、ひどくダンピールのドラルクのことを気に入っている。たまにこうしてロナルドを介して会うと、最近困ったことはないかだとか、竜の一族に加わりたいならいつでも言ってくれだとか、なんだったらお父様と呼んでくれても良いだとか、色々と気を配ってはくれるのだが、気の配り方が尋常ではないので若干怖いのだ。
 この状態をドラルクは上に報告したことはない。今でさえ良い様に使われているのに、さらなる労働が降りかかってくるのは目に見えている。省エネに生きるのは、ドラルクのダンピール生の目標の一つである。
「ミスタ・ドラウス」
 馴染まない呼称を口にしながら、ドラルクはどうにかドラウスの抱擁から抜け出す。ドラウスの胸を押し返す非力な腕を、彼はどうやら汲んでくれたらしくあっさりと離れた。
「ドラウスは関係ねーじゃん。あのおっさんが悪い」
 あと俺も多分ちょっと悪い、とドラウスの隣で元気にいうロナルドは左腕が欠けている。無理やり引きちぎったのだろう傷口はずたずただが、血は止まっている様だ。ロナルドは千切れた左腕を右手にもって、なんでもない様に立っている。もちろん彼にとってはこんな怪我はなんでもないのだろう。
「そうだ、お前もちょっと悪い…が、我が友が突然やってくるとは思わなかったからな、これは私のミスなんだ」
「我が友?」
 ドラウスの言葉にドラルクが眉尻を上げて問いかける。問い返しはしたものの、ある程度の状況は見た瞬間にわかった。ロナルドの左腕がきれいに氷漬けにされているからだ。竜の一族と親しい高等吸血鬼たちのデータの蓄積はそれなりにある。
「ノース…いや、この場合氷笑卿と言った方が通りが良いのか」
 ドラウスはひどく強張った声音でそう言った。ドラルクは脳裏でいくらかデータを引っ張り出して、見当をつける。魅了で女性を洗脳しては血を戴く吸血鬼は、氷を操ることも得意だ。
「彼とロナルドは非常に折り合いが悪くてね」
「おっさんが悪いんだよ、俺を見ると殺したくて仕方ないって感じでさあ」
「あいつにはあいつの理由があるんだ」
 それで普段は顔を合わせない様に気を配っているのだが、今回は間が悪く鉢合わせをしたのだそうだ。ドラウスの口ぶりからすると、ロナルドが呼ぶのところの「おっさん」が突然やってきて、止める間も無く戦闘開始と相成ったのだろう。よく見るとロナルドの服や顔のあちこちに小さな擦過傷が見える。
「俺は殺さない様にしてるんだぜ、不公平じゃね?」
「お前だって、片足ちぎって投げてただろうが」
「そうしないと俺、死ぬもん」
 もんとかいうな、可愛くないぞ、とドラウスは返す。頬を膨らませたロナルドは幼い子供の様にも見えるが、右手で持っている氷漬けの左腕を肩にかけているその様は正しく吸血鬼で、ドラルクはくらくらと目眩がしそうだった。

 その後、ドラルクに謝り倒すドラウスをどうにか宥めて、丁重にお帰りいただいた後で、ドラルクはロナルドの左腕を預かった。きれいに氷漬けにされているそれは一種、標本の様でもある。
「お風呂にお湯張ろうか」
「風呂、入るのか?」
 嬉しそうに片腕がちぎれたままロナルドが言う。その様子を見てため息をつきながら、ドラルクは「一緒に入る?」と口にした。
 そもそもお湯を張ろうと思ったのはロナルドの左腕を解凍しようと思ったからなのだが、そうとうにどんぱちやったらしい彼は随分と土埃まみれだったから、お風呂に入りたいというのならちょうど良いだろう。もしかしたらドラウスの城は半壊くらいしたのかもしれないが、ドラウスがドラルクに言わないのならば、ドラルクも藪をつつかないようにしている。
 すこし熱めの湯をはって、ロナルドを呼ぶ。片腕では服を脱ぐのは大変だろうから、浴槽の中に氷漬けの左腕を突っ込んでおいて、その間にロナルドの服を脱がすことにした。ブラウスのボタンを一つ一つ外していると、背中側がざっくり裂けていた。
「痛くないの?」
「? 今は別に痛くない」
 すっかりと服を脱がして、浴室へとロナルドを放り込む。体洗っててね、というと、わかった、と元気の良い返事が返ってきた。言ってから、片腕ではやりづらいだろうかと思ったが、特に問題はないようだ。ロナルドの服をある程度あらためて、捨てられるものは捨ててしまおうと思いながら、ドラルクも服を脱いで、浴室に入る。
 湯気がもうもうと立ち込む浴室では、ちょうど体を洗い終わったらしいロナルドが浴槽に入るところだった。浴槽に浮いている左腕はほとんど解凍されていて、ちょっとした猟奇殺人の体を呈している。ロナルドはラバーダックで遊ぶ子供よろしく、自分の左腕をゆらゆらと揺らしたり、右手で左手の指をなぞったりしている。
 千切れた腕でも、水分を吸ってふやけるのだろうかとドラルクはくだらないことを考えてから、その考えを追い出す様に頭を振った。
「ほら、ロナルドくん、ちょっとどいて」
「はーい」
 体をざっと洗ってから、浴槽に入ろうと声をかけると、ロナルドは自分の左腕を引き寄せて、端に寄った。それなりの大きさの氷をつっこんだせいで、あつめのお湯はぬるくなっている。ドラルクの体にはちょうど良いくらいだし、ロナルドもそれほど熱い湯が得意ではない。
「なぁ、どらるく」
 湯に滲んだ様なロナルドの声がドラルクの鼓膜を撫でるのを、ドラルクはいつも心地よいと思ってしまう。ロナルドがこうして怪我をして帰ってくるのはそれほどあることではない。吸血鬼ロナルドは大層に強力な吸血鬼だからだ。単純に真っ向から戦って彼に勝つものは数少ない。日光耐性もあれば、にんにくも平気、銀も十字架も恐れない、燃費は悪いくせにあまり血を好まない、健康的な肌色の彼にも弱点はある。
 彼は傷が再生しない。
 吸血鬼の再生能力・治癒能力は得てして、人間のそれをはるかに凌駕しているが、吸血鬼ロナルドは下手したら人間の治癒能力を下回るくらいに怪我の治りが遅い。だから彼の背中についている傷も、彼の顔にある小さな擦過傷も、千切れた左腕も、このままにしていたら治るまでに随分とかかるだろう。彼に片足を千切られた方の吸血鬼は今頃両足で歩いているにもかかわらずだ。
「なぁに、ロナルド君」
 ダンピールのドラルクが、自分にも吸血鬼的な側面が残っていると感じるのはこんな時だ。吸血鬼には本能的な畏怖欲というものがあって、こういう時にそれがいたく刺激される。だからわかってるのにわざと問い返す。
 体温があがって血色の良くなったロナルドの頬は、丸みを帯びて紅潮している。すこし開いた口から覗く牙は彼が吸血鬼だとドラルクにわからせる。ロナルドはむずかる様に眉間にシワを寄せてから小さく呟いた。
「血が飲みたい」
 どらこうの、と続ける声は浴室の湯気にあてられたかのようにふやけている。
 吸血鬼ロナルドの再生能力は人間以下だ。
 ただし、ドラルクの血を飲めばその限りではない。ドラルク以外の誰の血でも彼はそうならない。一度、輸血パックの血で治そうと試みたことはあるが、それはロナルドの腹を満たすだけで、彼の傷を癒すには至らない。理由も原理も謎で、VRCの研究課題でもあるが、吸対としては使えるのならば理由や原因などどうでも良い。これもドラルクがロナルドの監視任務を任されている理由の一つだ。
 この強大な吸血鬼が、ドラルクを欲し、彼の言うことを聞くということが、どれほどにドラルクを高揚させているのか、当のロナルドは考えもしないだろう。
「しかたないなぁ、ロナルドくんは」
 痛くしないでよね、と頬を赤く染めたロナルドのわずかに開いた口に指で触れる。ロナルドはくすんだ赤色の瞳の焦点がぼやけているのをドラルクはひどく良い気分で見つめながら、ぬるい舌に指の腹を置く。牙を避けて、舌の上においた指の腹で奥歯に触れて、上顎をなぞると、ロナルドの瞳にじわりと涙が滲む。
「お利口さんだね」
 いいよ、と言われるまで、健気に待っている様子が犬みたいでかわいいな、とドラルクは思う。それからゆっくりと牙の先端に触れて、笑った。牙に触れている指を傷つけない様にぴくりとも動けないままのロナルドが瞳だけでドラルクに懇願してくる。
 牙に触れている指に力を込めると、先端が指の腹に沈んで、皮膚の破れる小さな痛みが訪れた。口内に落ちる血の一滴に怯える様に舌が震えるのが可愛かった。
「いいよ」
 ロナルドの瞳がいよいよ溶けていくのを見るのをドラルクはとても好んでいる。舌の上に血の一滴が溜まって、それを必死に飲み込もうと喉を鳴らすロナルドの瞳の色にじわりと青色が混ざっていく。ドラルクの血を飲むとなぜ彼の瞳の色が変わるのかドラルクはよく知らなかったが、その様はまるで夜明けの様だとドラルクは思っていた。そうして彼が、自分以外の存在からつけられた傷がきれいさっぱり消えて無くなるのなら、なおのこと気持ち良くてしかたがない。

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