取り返しのつかない物が失われたことを突きつけられるのがめちゃくちゃに好きなのでそういう話を書きました。ヒヨシとロナルドにちょっとフォーカスあたってます。チェンソーマンの擬似家族崩壊がめちゃくちゃ良くて、その流れをパロっているので、チェンソーマンパロです。ロナルド君が吸血鬼になって自我を失ってやばいことになったからみんなで止めようとする話です。スペックはめっちゃ盛りました。チェンソーマンパロに救いはない。ロナルド君は死にます。あとはみんな生きてます。少年誌程度の流血描写はあります。自我がクラウド化されているから大丈夫だけどメビヤツが破壊されたりもしてる。そんな感じの話。

We need a silver bullet from time to time, because we humans are always crashing into inescapable tragedy.
「私たちには時々銀の弾丸が必要だ、なぜなら私たち人間はいつだって避けられない悲劇に墜落していってしまうのだから」

We need a silver bullet from time to time, because we humans are always crashing into inescapable tragedy.

 多分偶然だったのだろう、とドラルクは思う。
 もしこの世界のあらゆることが必然で説明できるならば、事実には必ず決められた原因があることになり、その原因にもまた原因があるようになるだろう。悲劇は神が光あれと言った瞬間から予定され、それを覆すことは不可能になってしまう。けれど幸運なことに、あるいは不幸なことに、現実は吸血鬼でも苦い顔をするほどに無作為な気まぐれが支配している。
 だから、扉の向こうで何かが落ちた音がドラルクの耳に届いたのは偶然だった。
 ドラルクはジョンとゲームをしており、扉の向こうで落ちたのはおそらく看板の類だろうとあたりをつけた。ちらりと扉の方へと目をやると「ロナルド吸血鬼退治事務所」の看板はかかったままなのが見えたので、事務所の入り口の「どなたでもお気軽にお入りください」の文言が取れたに違いなかった。
 ドラルクほど吸血鬼のセオリーに縛られる吸血鬼は稀だし、たとえ今時珍しいほどに由緒正しい吸血鬼が来たとしてもドラルクが「どうぞお入りください」と一言言えば済む話である。大体落ちた看板をもう一度付け直すだなんて重労働に勤しみたくはなかった。扉にむけた視線を、そのまま時計へと走らせると、もうすぐロナルドが帰ってくる時間だ。
 そろそろ夜食の準備をしようかとゲームの電源を切って、ドラルクが腰を上げかけた瞬間、こん、と扉がノックされた。小さな音だった。ゲームをやっていたら気がつかなかっただろう。ドラルクは先ほど見ていた扉へともう一度視線を戻した。夜目の効くドラルクが目を凝らしても、扉の向こうに人影は見えない。
 こん、こん、こん、こん、と途切れることなくノック音が響いている。今度のものは先ほどより大きい。ドラルクは何か言おうと口を開けたが、言葉は出てこない。もし帰ってきたのがロナルドならば、彼はいつも通り「ただいま」と言って扉を開けるだろう。
 だから今、扉をノックしている人物はロナルドではない別の誰かだ。ならばドラルクは「どなたですか?」なり「どうしたました?」なり、そうでなければ「どうぞお入りください」と声をかけるべきだ。扉を叩いているのが依頼人ならば、立ち上がって、玄関まで歩き、ノブを回して、扉を開けるだけで良い。
 違和感がぎりぎりとこめかみを苛んでいる。ジョンとドラルクは示し合わせた訳でもないのに、息を殺して、ノックされ続ける扉を見つめている。事務所はまだ開いている時間だと言うのに、真っ暗な曇りガラスの向こうは何も見えない。先ほど見えていた看板の影すらも。いつのまに廊下の蛍光灯が消えたのか、ドラルクにはわからなかった。
 ルルルルル
 突然鳴り出した電話のベルにドラルクは驚いて一度死んだ。いつもならば泣いて悲しんでくれる使い魔も異様な雰囲気にじっとして物音を立てなかった。ずるずると再生している間も、ノックと電話の呼び出し音はなり続けている。ドラルクはどうしたものか、しばし迷って、ゆっくりと立ち上がり電話を取ることにした。
 受話器に伸びる指が震えているのは気のせいではなかった。今までに見たホラー映画の一場面が代わる代わる浮かんでは消えていく。受話器をとったしても、サーっと砂の落ちる様な音がするだけで、よく耳を澄ませば呻き声が聞こえてくる、といった類の幽霊であるならばまだ良いとドラルクは思っている。彼らをどう撃退すれば良いのかドラルクにも多少の知識があるからだ。
『ドラルクか?!』
 だがドラルクの予想はあっさりと外れた。電話口から飛び出してきた声は、ショットのものだった。常より大分焦りが滲んだ声の向こう側はざわざわとして騒がしい。救急車のサイレンや、人の叫び声が聞こえる。
『ロナルド、そこにいるか?』
「…え、いないけど…」
 小さく呟く様に答えると、ショットは舌打ちをしてからため息をついて沈黙した。
「なんだい、一体どうしたって」
 言うんだ、と金縛りから抜け出した様に小声でドラルクは続ける。沈黙を続けるショットの息遣いの向こうでは、依然としてサイレンの音や人間の金切り声がする。ドラルクはブラインドの開いた窓をふいに見る。夜だと言うのに遠く街の一部がいやに明るい。それがよく見えなくて、受話器を耳につけたままドラルクは目を凝らして窓に近づこうとした。電話口で沈黙していたショットが息を深く吸う音が聞こえる。
『ドラルク、落ち着いて聞いてくれ、ロナルドが』
 ドン!と扉を叩く音が大きくなって、ドラルクは驚いて受話器を取り落とした。控えめに続いていたノックの音は電話のベルが途切れたことで室内に誰かいるとわかったのか、急に激しくなった。ドン、と叩かれる度にドアが震えて少し撓んでさえ見える。ドアのすぐそばにいるメビヤツが迷う様に目をくるくると動かしていた。受話器の向こうでショットが慌てた様に何かを言っているが、ドラルクの耳には届かない。
 視界の端に引っかかっているブラインド越しの窓の向こうが、一瞬さらに明るくなる。それから花火が打ち上がった様なくぐもった爆発音がした。同時に受話器は沈黙して、何も聞こえなくなってしまった。それをきっかけにしたように、ノックが唐突に止んだ。
 ジョンは固まったまま扉の方をじっと見ている。メビヤツが困惑して扉の向こう側を検分する様にピントを変えている音がする。ドラルクは自分の吐いた息の音が耳障りで仕方がない。
「おーい」
 扉の向こうから聞こえてくる声は室内を支配する重い空気とうってかわった間延びした声だった。
「ドラルク、あけてくれよぉ」
 それはドラルクがいつも聞いている馴染み深いロナルドの声に他ならない。
「なぁ、なぁ、なぁ、なぁ」
 ノックの音はささやかなものに戻り、ロナルドの声とともに扉は叩かれている。拳で軽く叩いている様な音はやがて手のひらでガラスにすがるような、ぺたぺたとした音になった。扉の向こうにいるのが本当にロナルドならば、事務所の扉に鍵はかかっていないのだから彼はただいまと言いながら事務所の扉を開ければ良い。けれども扉の向こうの彼はただ繰り返し扉を叩いているだけだ。
「ロ、ロナルド君…?」
 おそるおそる呼びかけると、声もノックもぴたりと止んだ。静寂が室内に降りて、蛍光灯の明かりが立てる虫の羽音のような音が鼓膜を打つ。
 ドラルクはゆっくりと足音を殺す様にして扉に近づいた。手を伸ばせばノブを回せる距離で、立ち止まる。扉の向こうに何が居て、開けたらどうなるのか、このままここで息を殺していた方がいいのか、全く判断がつかない。
 スッと音もなく、扉の下の隙間から液体が流れてきた。少し粘ついた液体は蛍光灯の下で赤黒く、ドラルクのつま先を濡らした。むせ返る様な血の匂いにどうして今まで気がつかなかったのか不思議なほどだった
「ロナルドく…!」
 反射的にノブを回して扉を引くと、扉の前で立ち尽くしているのは間違いなくロナルドだった。真っ暗な廊下に彼は無防備に立っていた。大雨に打たれた様に彼は血まみれで、赤い帽子の鍔の先からぽたぽたと血液が垂れ落ちて、足元の血溜まりに落ちていっていた。彼は夢を見る様なぼんやりとした瞳のまま、口の端をあげて緩やかに笑った。
「ただいまぁ」
 上擦った声の甘さより、ドラルクが驚いたのは、暗闇の中でぽっかりと白く光る鋭い牙だった。ドラルクの目の前で蕩けた様に笑う退治人は、真性の吸血鬼と化していた。もしドラルクがわかりやすく強大な吸血鬼であれば、ロナルドをとっさに組み伏せたかもしれない。けれどそれは到底ありえない空想にすぎず、現実としてはドラルクはロナルドを茫然と見つめる以外に出来ることは何もなかった。
 退治人が仮性吸血鬼と化すケースは稀ではあるがない訳ではない。だがドラルクの目の前で蕩けた様に笑うロナルドはどう見ても「仮性」吸血鬼ではなかった。
 人間を吸血鬼化することは、はっきり言って難しい。人間は基本的に極めて吸血鬼化しにくい生き物なのだ。よっぽどその人間を噛んだ吸血鬼と噛まれた人間の相性が良いか、定期的かつ長期的な吸血をもってして、人間は吸血鬼となる可能性を得る。人間を吸血鬼にするにはそれなりの準備がいる。ただ吸血するだけで彼らは血族にはならない。
 故に人間を吸血鬼にしようとして失敗した例は数多くある。いくら噛んでも吸血鬼化することのない人間、なりそこないのグール、自我を失って身体だけが変化するもの、あるいは完全に吸血鬼となっても生前と全く違う人格を有したりなど枚挙には暇がない。
 なのでドラルクは考えた。ドラルクの目の前にいるのは間違い無く真性の吸血鬼だ。極めて強力な催眠がドラルクにかけられているという可能性もあったが、そう判断するにはドラルクの左でロナルドが怪我をしたのだろうかと慌てているメビヤツの挙動に説明がつかない。電子回路で動く機械に催眠をかけることはできない。正確には生物と非生物に同時に同じ催眠を見せるのはほぼ不可能と断言できる。だからドラルクの目の前にいる吸血鬼のロナルドが、どの失敗例なのかを見極めなければならない。
 血まみれで酔った様に笑う元人間の彼が、幸か不幸か吸血鬼化に成功したと判断するほどドラルクは夢みがちではない。
 それまでぼんやりとドラルクを見ていたロナルドがふっとドラルクに触れる様に腕を動かした。空気を撫でる様な軽い挙動と同時にドラルクの背後にあったソファがぎゃりっと音を立てて潰れた。
「メビヤツ!」
 ドラルクは叫びながら踵を返した。
「最大威力で彼を撃て!」
 メビヤツがビームを撃てば多少の時間稼ぎにはなるだろう。お祖父様が作っただけあって破壊力は折り紙付きだ。吸血鬼を殺すにはいささか足りないだろうが、そこまでは望んではいない。視界の端で戸惑ったメビヤツの視線が動くのが見えた。
 ソファの潰れた音が聞こえただけだと思っていたが、応接セットを中心に円形に床が凹んでいる。ドラルクの優秀な使い魔は部屋の隅で震えていた。キュインとメビヤツのビームが発射する音がドラルクの耳に届いた。後ろで小さな爆発音がする。音が小さすぎることにドラルクは舌打ちをしたくなった。ロナルドに随分と懐いている機械は、ドラルクの言うことを聞かなかったらしい。若造がただいまだのなんだの可愛がるからだ。
 こちらに向かってくるジョンを抱きとめてドラルクは逃げようとした。背後でプラスチックが割れる様な音がして、何かの破片がドラルクの頬をかすめてブラインドを巻き込み窓ガラスを割って落ちていく。
 落ちていった破片が何かドラルクは瞬時に理解してフリーズした。軋んだ音を立てるようなぎこちなさで首を動かして振り返ると、ちょうど床に随分と水分を含んだ帽子が落ちるところだった。帽子は形を崩してべちゃりと嫌な音を立てる。本来であれば、その帽子をうやうやしく受け取るだろう愛嬌のある機械は、上半分が吹っ飛んで色とりどりの配線が剥き出しになっていた。ぱちり、ぱちりと回路がショートして小さな火花が散っている。ロナルドの足元に広がった血溜まりはまるでメビヤツの体から流れ出したみたいだ。
 恐る恐る視線をあげると、ロナルドはやはり緩やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を動かす。
「ジョン!」
 事務所の入り口に立つ彼の口から、ロナルドと同じ声が出てくることが到底受け入れられずにドラルクは反射的にそう叫んだ。ドラルクの声にロナルドは何かを言おうと動かした口を止めて、疑問を覚える様に首を傾げる。
「逃げ…っ!」
 ろ、と音が声になる前に、入り口にいたはずの彼は一足飛びのドラルクの目の前へと跳んできた。吸血鬼になっても血色の良い指の先の爪は鋭く尖ってドラルクの首を掴む。一体彼は手袋をどこに落としてきたのだろうと関係のないことが脳裏に浮かんで消える。ドラルクの大事な使い魔が無事に逃げられたのか、首を掴まれロナルドもろとも窓から落ちたドラルクには確かめられなかった。



 足取りがなんだかふわふわとしている。視界に膜がはられたみたいに輪郭がぼやけているのに、なにもかもが明るく見えてロナルドは何度か瞬きをする。事務所のドアを開けようとして鍵を忘れていたことに気がついて、扉を何度かノックすると事務所にいたらしいドラルクが開けてくれた。
 扉をあけたくせにドラルクがいつまでもそこからどかないので、ロナルドはそれが不思議だった。「どなたでもお気軽にお入りください」の看板が落ちているのが視界の隅にひっかかる。あれが落ちてなかったらなあ、とロナルドは思う。
 そうしたらドラルクに扉を開けてもらうなんてことせずにすんだのに。
 扉の横にいるメビヤツはいつも通り帰ってきた自分を見上げている。いつも帽子をかけられるのを待っているこの機械がロナルドはどうにもかわいい。瞬きをしてすり寄ってくる様子がいつもよりもすこしはしゃいでいる様に感じられて、ロナルドは帽子をメビヤツにかける前に彼の丸い頭をゆっくりと撫でた。それからメビヤツに帽子を預けると、彼は帽子掛けの役割を全うするとでもいうように目を瞑って動かなくなった。
 腹が減ったなあ、とロナルドはぼんやりと考えた。さっきあんなに食べてきたのに。
 今日のメシはなんだろう。家に帰ると、食べるものが用意されているという現実にもうすっかり慣れてしまった。視線の先のドラルクが引きつった顔で後ずさるのが気にかかった。
 どうしたんだよ、ドラ公
 ドラルクの肩に手をかけて、そう尋ねようと思ったのに、彼はその手を避ける様に後ずさった。ロナルドはドラルクにそのように振る舞われる心当たりがなくて、多少の苛つきと疑問が湧いてでた。なんなんだよ、と悪態をつくように、無理やりドラルクの首を掴んだ。
 それにしても、腹が減って仕方がない。



 ドォン、と大きな音を立ててアスファルトに掌がめり込んだ。ドラルクが人間ならば、ロナルドの怪力とアスファルトの硬さに挟まれて、よくて下半身が千切れる程度で悪ければスーパーには到底並べることのできないぐちゃぐちゃのひき肉になってしまっていることだろう。幸いドラルクはすぐに死んでしまう吸血鬼なので、硬い地面に打ち付けられる前に死んで塵となっている。
 叩きつけた相手が消えてしまったのが不思議なのか、ロナルドは数秒その姿勢のまま固まっていた。自分の手の下でぞるぞると動いている塵に合点がいったようで嫌にゆっくりと立ち上がる。あたりに人気はなかった。ロナルドが事務所を構えているエリアはオフィス街に近く、今の時間帯に人はあまりいない。住宅街の方ならば被害は甚大だっただろうから、不幸中の幸いといったところだろうか。
 立ち上がって、不思議そうにあたりを見回しているロナルドの様子を見ながらドラルクは少し距離をとってすこしずつ再生しようと試みる。人間の頃から力が強かったが、吸血鬼になってここまで強化されるとは恐れいる。こんなに能力の高い吸血鬼ならば相応の自我があって然るべきだが、残念なことに彼はそうではない。
 ロナルドからなるべく距離をとりたいが、かといって塵のまま移動できる距離はそれほどない。ずるずると塵から人型になっていくのはそれなりに目立つ。ドラルクの再生した目が、めり込んだアスファルトに立ち尽くしているロナルドとかち合った。青い虹彩の中に浮かぶ小さな黒い瞳孔が、おもちゃをみつけた動物の様に大きく開くのが見えた。
「まっ…」
 まった、とドラルクが最後まで言い切る前に、何かが地面に落ちる軽い音と共に悲鳴が聞こえた。曲がり角の向こうから現れた人間は携帯を取り落として腰を抜かしている。やってきたのが退治人や隊員ならば恐怖を感じても悲鳴を上げるまではしないだろう。先ほどショットからかかってきた電話や爆発音を考えれば、避難指示が出ていてもおかしくはないのに、後手に回っているのだろうか。それともただ単に、今現れた一般人は避難指示に従わずに好奇心に駆られてやってきた愚かな人間なのだろうか。
 急に現れた人物は再生をしかけているドラルクよりもよほどロナルドの興味をそそったらしい。立ち位置さえ変えずに首だけをやってきた人間に向けた吸血鬼は一体どんな表情を浮かべていたのか、人間の顔色から血の気が引いていくのが見えた。
「ロナルド君」
 ロナルドが何をしようとしているのかドラルクには検討もつかなかったが、少なくとも良いことではあるまい。自分は何度死んでも蘇ることができるが人間はそうはいかない。やってきたのが吸血鬼であればまだよかったのに、とドラルクは思う。新横浜に溢れんばかりにいるはずの吸血鬼共は今日はどうしているというのだろうか。
 きぃん、と耳鳴りがして、ドラルクは咄嗟に耳を押さえた。こめかみがぎりぎりと痛む感覚に覚えがあった。これは催眠だ。
 吸血鬼の能力の大盤振る舞いじゃないか、とドラルクは忌々しく思った。吸血鬼退治人の彼には随分と才能があったのかもしれないが、それは冗談にもならない。力の強さも能力の指向性のコントロールもぐちゃぐちゃで、おそらく彼はやってきた人間に向けて催眠をかけているのだろうにドラルクにまで影響が出ている。
 ロナルドと目が合って血の気がひいていたはずの一般人は急に目の焦点を失って、恐怖の表情を顔面から落とし切る。自分が落とした携帯電話を踏み越えて、ふらふらとロナルドの前までやってきた。
「ロナルド君!」
 ぴたりとロナルドの前に立ち止まった人間をロナルドは手も使わずにゆっくりと持ち上げた。応接室のソファを潰した様に力加減ができていないのか、持ち上げられた人間は人間の形というには少し歪んで、鬱血した顔面が赤らんでいる。色だけが変わっていくそれの表情はやはり弛緩して何の感情も浮かんではいない。緩く解けた口をロナルドはぱかりと大きく開けた。彼の尖った牙が月光に反射してよく見えた。
「やめるんだ!」
 ドラルクのどんな叫びもきっと意味がないだろうことはドラルクだってわかっている。そもそもこんな風に絶対に敵わない相手に向かっていくほどドラルクは無謀ではない。愚かではない。無駄なことをするタイプでもない。
「一般市民を傷つけるのは君が最も望まないことだろう!」
 だがあのお人好しの彼がこんなことをするのを見ていたいわけではない。
 ドラルクの叫びと同時に、濁った声を上げて人間は押しつぶされた。悲鳴すらすりつぶされて、体中に含まれる水分が周囲に加わっていた力に合わせて滴り落ちる。ロナルドがぱかりと開けた口にその量は到底収まりきらず、彼の髪や顔面を濡らしていく。
 先ほどまでは帽子が彼の髪が濡れるのを防いでいたのだろうかとドラルクはぼんやりと思う。前髪が濡れて額に張り付いている様は、普段の彼の様子とあまりにギャップがありすぎる。ぱかりと開いていた口を閉じて、ぼたぼたと指先からたれている血液をもったいないとでもいうように含んでいる彼の姿は、まるでコップから飲み物をうまく飲めずにこぼした幼児のようだった。絞り切られることもない肉塊に興味を失ったらしく、浮かんでいたそれはどしゃりと湿った音を立てて地面に落ちる。
 引き絞られた瞳孔が夜の中でもよく見えた。ロナルドはドラルクを見て、血まみれの唇を動かす。
「どらこ、う?」
 ロナルドがこちらに歩み出す寸前、彼の体に縄の様なものが巻きついて、がくんと体が折れた。縄の先についているフックショットが巻きついた縄と噛み合ってロナルドの体を締め上げる。自分の体に何が起こったのか理解できないのか彼の呼びかけは不自然に途切れた。
「そこまでだぜ、ロナルド!」
「ショットさん!」
 いつの間にやってきたのか気配を潜めていたらしいショットが物陰からそう叫ぶ。ドラルクはこのロナルドと一人で相対せずにすんだことに反射的にほっとした。もしかしたらジョンが彼らを呼んできてくれたのかもしれない。けれど現れたショットの服はところどころ焼け焦げて、どこかを負傷しているのかまだらに血がついている。ドラルクはその様子にぎょっとしたが、先ほど電話をかけてきたのが彼だったことを思い出す。もしかしたらロナルドとの戦闘はここが初めてではないのかもしれなかった。
 ふっとロナルドに影がさして、ロナルドと同時にドラルクは視線をあげた。するとそこには刀を大上段に振りかぶったヴァモネが空から落ちてくるところだった。音もなく刃の中腹がロナルドの肩に食い込んで、そのまま袈裟懸けに斬りおろされる。静かに地面に落ちたヴァモネの足音だけがドラルクの耳に届いた。
「?」
 一拍遅れて、ロナルドの口からごぽりと血液が吐き出された。口から何かがこぼれたのが理解できないという様にロナルドはゆっくりと口元に右手をやろうとした。
「ロナルドォォォ!」
 だが次の瞬間、響き渡った半田の声と共に右腕が切り落とされる。切断した腕は地面に落ちることなくそのままざらりと塵となった。半田の影に隠れていたヒナイチが半田の攻撃から一瞬遅れてロナルドの右足を斬り飛ばす。腕と違って足は塵にならずに地面に落ちた。さすがに片足を失ってはバランスを保ってはいられないらしく、ロナルドの体がすこし傾いだ。
「今じゃ」
 ドラルクの耳に静かな声が響いてから、奇妙な間があった。
 ドッ、と粘土が硬いものにぶつかる様な音がして、ロナルドのこめかみに穴が開く。飛び散った赤黒い血がそばにいた半田の顔や制服にかかる。元から傾いでいた体が衝撃でさらにぐらりとよろめいた。そのまま倒れ込むかと思った瞬間、ロナルドの体がその動きをぴたりと止める。
 撃ち込まれた傷口の方へ眼球が動くのがドラルクには見えた。
 眼球の動きに合わせて、ゆっくりと骨の外れかけた首をロナルドは動かした。右腕を切り落とした後、半身を落としてほとんどしゃがんでいるような姿勢の半田の頭越しに遠く視線をやる。ドラルクがわかったのはそこまでだった。
 鼓膜をつん裂く様な大きな音がして、ロナルドが消えた。片足しかないはずの彼はそのまま跳んだ、のだろう。彼がさきほどまで立っていた道路は、その衝撃で大きく陥没していた。

 合図とともにライフルの引き金を引いたサギョウは暗視スコープ越しに着弾の瞬間を目撃した。引き金を引いてから約2秒弱。スナイパーライフルの長距離射程としてはいまいる地点はぎりぎりの距離だ。600メートルや1000メートルならば当てるのは簡単だが、夜間の2000メートル以上の距離での狙撃はよほど慎重を期さなければ標的に当てることはできない。暗視スコープの緑がかった視界でぐらりと体の傾ぐ標的の一部が見える。
 止めていた息を吐いて、スコープから視線を外そうとした刹那、倒れかけた体がぴたりと静止した。ゆっくりと錆びかけたブリキの様にぎこちない動きをする首が回り、表情の何も浮かんでない顔がゆっくりと見え始める。スコープの中で、爛々と緑色に光る吸血鬼の瞳がみえた。サギョウは脳裏にバチリ、と大きな音がしたような気がして、冷たい息を吸った。
 目が合った。
 急いで体を起こしてこの場から一刻も早く立ち去ろうとする。近距離での狙撃の場合は、撃っては場所を移動することが鉄則だが、これほどの超長距離ならば狙撃しながらの移動はほぼあり得ない。だから、ここから逃げる手段をサギョウは自分の足以外何一つ持っていない。
 かつての面影が外見しか残っていない吸血鬼は、随分と静かにサギョウの前に現れた。屋上の柵の上に体重を感じさせない軽さで現れる。ざらざらと彼にまとわりついている黒い塵はやがて欠落していた彼の身体を形作った。先ほどどうにか隙をついて飛ばしたはずの腕や足も、サギョウが撃ち抜いた頭の穴もすっかりと元通りだ。元通りにならないのは彼が血にまみれているという状態だけだ。
 二脚架がついたままのスナイパーライフルは幸運なことにセミオートマチックだった。全長1.5メートル弱のライフルは短距離狙撃にはあまり向かないが、それだって手元に武器があるだけ感謝せねばなるまい。込めてある銃弾は対吸血鬼用の弾だ。
 この距離ならば狙いを定めるよりも前に引き金を引いたほうがまだ可能性がある。彼の体のどこかしらにはあてられるだろう。残りの弾数は8発あった。肩が外れるかもしれないが、命がなくなるよりマシだ。サギョウはそんなことを考えながら、引き金に指をかける。
「ば、ァ」
 銃口を向けようと顔を上げた瞬間、目の前にあったのは相手の顔だった。瞳孔の引き絞られた瞳が、まつげが触れるほどの距離にある。子供みたいな無邪気な声はひび割れて恐ろしい。ライフルの長い銃身よりも内側に入られてしまえばもう出来ることは何もない。彼が軽く掴んだスナイパーライフルの銃身はまるで溶けかけた飴細工のように簡単に曲がってしまった。この力で腕ごと持っていかれてはたまらないと咄嗟に手を離すと、壊れたおもちゃのようになってしまったライフルはそのまま屋上の床を滑って柵の向こうへと呆気なく消えてしまった。
「ロナルドさん、それはちょっと反則ですよ」
 負け惜しみの様に笑って言う。サギョウに投げかけられた言葉を理解しているのか、いないのか、サギョウを見つめるロナルドは楽しそうに小さく笑い声を漏らしている。ゆるやかな動作で彼に掴まれた右腕がもぎ取られないことを祈りながら、短距離の早撃ちでもいつか彼と良い勝負ができるはずと思っていたのになぁ、とサギョウは投げやりに考えた。



 ふわふわと気持ちがどうにも浮き足立って楽しくてたまらないので、ロナルドはこみ上げてくる感情そのままに小さく笑い声を上げる。こつんと頭に何かが当たったので、足下を見るとそれは野球のボールだった。投げてきた同い年くらいの子供が遠くぽつんと離れて寂しそうだったので、手を引いて連れてきたけれどいつの間にかどこかに行ってしまった。
 でも楽しいなあ、とロナルドは同じことを思う。たくさんの友達やいろんな大人たちが代わる代わる遊んでくれるので、時間があっという間に過ぎていく気がする。鬼ごっこもかくれんぼも、いつも鬼だけれどそれでも楽しい。
「ロナルド」
 かけられた声にロナルドは駆けていた足を止めて、顔を上げた。パン、と小気味良い音がして声をかけてきた人間から投げられたボールをロナルドは片手で受け止めた。
「兄貴!」
「グローブ持ってきたぞ」
 そう言ってヒヨシが投げてきたグローブをボール同様ロナルドは受け止めた。小さな頃に家の前の路地でたまにやっていたことを思い出して、ロナルドは思わず、キャッチボールだ、と声を張り上げる。いそいそとグローブをはめると、ヒヨシがさっき投げてきたボールをそのまま投げ返した。
 子供の自分の小さな手で投げたボールが兄に届くのかロナルドには少し不安だった。案の定ヒヨシの手元までは届かずに、道路に落ちてころころと兄の足元まで転がる。ヒヨシはそれを何も言わずに拾って、ロナルドに投げ返した。山なりの軌道を描くボールは、ロナルドにもキャッチしやすい様に気を配ってのことだろう。
 投げられたボールをキャッチしながら、ロナルドはこみ上げてくる笑いが抑えられずに、グローブをはめた手を口元に当てながら、ふふふ、と笑った。兄とこうして遊ぶのは本当に久しぶりで、それがとても楽しい。幼い頃にやったキャッチボールの記憶は、忙しい兄を珍しく独り占めできる時間で、それが嬉しくてたまらなかったことを思い出す。
「俺ね、兄ちゃん」
 受け止めたボールを投げ返しながら、ロナルドは言う。
「ずっと、こうやって兄ちゃんと遊びたかったんだぁ」
 今度は地面に落ちずに投げきれたボールを、ヒヨシは危なげなく受け止めた。何度か往復をすればだんだんとコツを思い出してきたのか、キャッチボールは様になってきてくる。往復するボールがグローブに収まる、良い音がする。
「ロナルド」
 ぼんと、上に上がり過ぎたボールをうまく受け止めたヒヨシがロナルドに不意に声をかけた。なに? とロナルドが首を傾げてヒヨシに問うと、ヒヨシは少し声を張り上げながら笑って、ロナルドに呼びかける。
「次は本気で投げるぞ」
 キャッチボールの最後にはいつもヒヨシはそう言った。それでロナルドが投げ返したら、じゃあ帰るかと言って家に戻るのだ。ヒヨシが言う本気の弾はロナルドが受け止めるにはすこし荷が勝つが、自分の兄がすごいのだとわかるのが嬉しかった。同時に、それを合図にキャッチボールがもう終わってしまうのがすこし寂しい。
「うん」
 そう応えて、ロナルドはヒヨシを見る。こちらを見つめるヒヨシの表情は先ほどまでと違っていやに静かだ。
「兄ちゃん?」
 ちかりと、光がロナルドの目を刺す。兄の手元にあるものが野球のボールではなく銀色に光る銃口に見えた。自分とキャッチボールをしていた兄が赤い退治人服に身を包んでいることにロナルドは突然気がついた。自分に向けられている銀色のあの銃にどれだけ憧れたのか、兄だって知っているに違いない。どうして今そんなことを思い出すのだろうとロナルドは不思議に思った。
 投げられたボールをロナルドは確かに胸のあたりで受け止めた。



「全く因果な商売じゃ、そう思わんか」
 倒れかけたロナルドの体の下にどうにか滑り込んだヒヨシはそう言いながら、短い銃身の銃口をロナルドの胸に当てていた。装填されている銃弾は.357マグナム弾と同じ仕様のものだ。コーディングされているの鉛ではなく聖別された銀である。現状この銃で打てる最大威力といったところだろう。古来吸血鬼の殺し方とは心臓に杭を打ったり、銀の弾丸で撃ち殺したりすると決まっている。本当にロナルドが強力な吸血鬼と化しているのならば、この一撃で殺しきることはできないかもしれないが、おそらくそうではないだろう。彼は未だに未分化で、永遠に矜恃ある高等吸血鬼になることはない。
 引き金を引くのに躊躇はしなかった。起こされている撃鉄が薬莢の底を叩いて、銃弾が発射される。肋骨の合間をきれいに抜けて、心臓を届いたはずだ。くぐもった銃撃音は浮かれた爆竹の音の様にヒヨシの鼓膜をつんざいた。
 衝撃に少し体を揺らしたロナルドは、ヒヨシに覆いかぶさったまま、驚いた様に瞬きをした。びっくりとした表情を浮かべる顔は、ことここに至ってもヒヨシの弟と寸分違わない。
「にいちゃん」
 それから不意にヒヨシに気がついた様に、彼は口の端を解いた。幼い頃に遊んでやると弟は嬉しそうにそう笑ったものだった。
 ヒヨシは思わず、弟の名前を口走る。今更震える両手が銃を取り落とした。自分の動かした両手がやがて空を切ることをどこかで確信していながらヒヨシは、撃たれた心臓から塵になる弟を抱きしめて、行くなと叫び出したかった。



 受け止めたボールの勢いが強くて、そのままはじかれずに受け止められたことが嬉しくてロナルドは、わー、と声を上げた。
「やった!」
 そう言いながら顔を上げると、さきほどまではそれなりに距離をとっていた兄がすぐ近くにいる。とったよ、とグローブから真っ白なボールを取りだしてヒヨシに見せると兄は自分を抱きしめてくる。
 背中に回った腕の力が強くて、ロナルドはむずがる様に眉をひそめる。痛いよ、とそう言おうとして、ロナルドは口を噤んだ。自分を抱きしめるヒヨシの腕が震えていることに気がついたからだ。
「にいちゃん、泣いてるの?」
 喉の奥で殺しきれないような声が聞こえた気がして、ロナルドがそう問いかけると、いや、と小さな声が返ってきた。しばらくそのまま姿勢でいたが、やがてヒヨシはロナルドを解放して立ち上がった。本当に兄が泣いていたらどうしようとロナルドは心配していた。自分だけでは、大好きな兄がどうして泣いているのかも、その慰め方も全く見当がつかなかったからだ。けれど立ち上がったヒヨシの顔は優しく笑っていた。
「家に帰ろうか」
 ロナルドの名前を呼んで、ヒヨシはロナルドに向かって手を差し出した。家には妹がいて、兄が作った夕飯があるだろう。
「うん!」
 ロナルドはヒヨシと手を繋いで歩き出す。歩き出しながらふと気になって後ろを振り返ると、もうそこには何もなかった。楽しいことがいっぱいあったはずなのに、もう何一つ思い出せない。繋いだ手の先の兄が、どうしたんだと言う様にこちらを覗き込んでくる。ロナルドは首を振って、なんでもない、と笑ってヒヨシの手を引く様に走り出した。
 早く家に帰ろうよ、とロナルドが言うと、兄は楽しそうに笑い声を上げた。



silver bullet
【名詞】
1. 難題への単純な保証された解決策(a simple guaranteed solution for a difficult problem)

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