バレンタイン回のロナル子の女装があまりにも仕上がってたので、サブカブクソオタクモブ俺くんに恋をしてもらった。こういうギャップにやられることってあるよね
ギャップ
新横浜に引っ越して、家から駅までの道のりが遠くなった。大学から通いやすくて、家賃もそんなに高くないところで、とにかく急ぎで、と不動産屋に駆け込んで、あっという間に決めた賃貸は部屋の向きや広さは申し分ないが、何せ駅からちょっと遠い。十五分ほどの道のりは寒い冬には少し億劫であまり外に出なくなったし、駅から家までの間にドラッグストアもスーパーも、なんだったらラーメン屋やファミレスもあるので(駅前に固まっているだけとも言うが)引っ越してからしばらくは新横浜では駅から家の往復しかしていなかった。ゼミのやつらと飲むのなら、横浜で飲む方が便利だし、店の種類も豊富だ。
だから家から駅まで歩き、さらにそこを通り過ぎて十分ほど歩くカフェに入ったのは本当にたまたまだった。新横浜にも本屋があるのを知ってはいたが、家に向かう方向と反対なのでほとんど行くことがなかった。今週の授業に必要な本を買い忘れていると気づいたのは新横浜の駅を降りた直後で、いまさら横浜に戻るのも面倒くさく、それならば少し歩く方が良いだろうと思って、本屋へと足をむけた。本を出せば、すわノーベル文学賞を取るのでは、と毎年噂されるような作家の本はさすがに揃っており、目的のものを手に入れて本屋を出ると、冷たい風が首筋を撫でた。
そういえば今日は氷点下まで気温が下がるかもしれないという朝の天気予報が頭をかすめた俺はここから三十分近く家まで歩かなければならないことに若干辟易をし、どうせ家に帰っても本を読むのに取り掛かるまでに時間がかかるだろうと思って、本屋の隣に立っている喫茶店に入ることにした。
喫茶店は昔ながらの純喫茶という風体で、分煙、禁煙の風潮が進む世の中だというのに喫煙ができるのかうっすらと煙草の香りがした。クラシックのかかる店内は暗く、カウンター席四つと、ソファのテーブル席が二席あるだけのこぢんまりとした店だった。手書きのメニューはシンプルで、コーヒーと紅茶、あとはケーキやパスタが並んでいるだけだ。カウンターの奥にはバリスタとでもいうような老人でもいそうだったが、そんなことはなく、中年くらいの人当たりの良さそうな男が一人いるだけだった。
ドアベルの音を聞きつけて、カウンターにいる男がよく通る声で「どうぞお好きなお席へ」と言った。店内を見渡して、一番奥の暖房がよく効いていそうなテーブル席を選ぶ。夕方と夜の間の時間だったからか、それとも流行らないのか客は誰一人いなかった。奥のテーブル席の隣には壁に沿うように腰くらいの高さの小さな本棚がおいてあり、その棚には文庫本が並んでいた。本棚に並んでいる本のタイトルはベストセラーの小説からライトノベル、純文学まで幅広く、節操なく揃えられている。もしも読まなければならない本をと手にしていなかったら一冊手にとってコーヒーでも飲みながら読んだかもしれない。
「お決まりですか?」
店員にそう声をかけられるまで、人が近づいてきていると気がついていなかったのですこし驚いてしまった。本棚から目を離し、声をかけられた方に顔を向けるとそこには先ほどはいなかった店員の女性が伝票を手に笑顔を浮かべていた。黒いエプロンの腰あたりあるポケットから、大仏? のような大きなキーホルダーがのぞいているのが視界の隅に入る。
心地よい暗さの店内の穏やかな光の下でも店員の髪が美しい銀色をしているがわかった。目尻が甘くたれた瞳は海の底のように青く、こちらを伺うように下がった眉には気弱さが感じ取れた。
「……あ、ブレンドコーヒー、ホットで」
お願いします、と付け加えると慣れた口調で彼女は注文を繰り返す。こちらに声が届きやすいようにすこし屈んだ体勢は、こちらが座っているにもかかわらず上目遣いで覗き込まれるような奇妙な魅力があった。
マスター、とカウンターの内側にいる男に声をかけている後ろ姿からゆるく柔らかくうねったショートカットがわずかに揺れているのが一番目を引いた。随分と目立つ容貌をしているなと、最初に思った。けれどすぐに彼女は意識から外れて、俺は課題の本に没頭した。授業は来週だし、早めに読んで、考えをまとめておくに越したことはない。それにこの喫茶店は雰囲気の良い喫茶店だけれども家からは微妙に行きにくいところにあるから、再び来ることはないだろうと分かっていた。
はずなのに、あの日から俺は足繁く喫茶店に通っていた。ゼミのない火曜と木曜の、夜七時半。まだまだ外は寒いので、暖かいブレンドコーヒーを一杯頼んで、奥のテーブル席で本を読む。決まった曜日の決まった時間に、決まったメニューを決まった席で。そうすればすぐに常連になれると同じゼミの友人に言われて、忠実に実行をしている。その甲斐あって、銀色の髪の青い甘い目をした彼女の名前がロナル子さんということも、彼女以外にもう一人男のアルバイトがいることもわかった。通い出して一ヶ月も経てば、その時間、奥のテーブル席はよっぽどのことがない限りは空いてるようになり、メニューも頼む前にロナル子さんが涼やかな声で「ホットのブレンドですよね」と声をかけてくれるようになった。
その日も視界の隅でくるくるとカウンターやテーブルの掃除をしている彼女を眺めながら、特に集中もしていない文章を目で追っている。常連といえど客がいる限りは店内での会話は少なく、暇も持て余している時は彼女も俺と同じようにカウンターの入り口に一番近い席に座って、ゆっくりと写真集や本を眺めていることもあった。彼女も本が好きなのだろうか、どんな本が好きなのだろうと、声をかけることもできずに俺はぼんやりと、彼女には気がつかれないように眺める。紙面を熱心に眺めるロナル子さんの表情は豊かで、今はきっとハラハラする展開なのだろうなとか、悲しい展開の時にその瞳が滲んでいるのを見た時には思わず声をかけたくなった。もし俺がコミュ力のあるイケメンだったら物怖じせずに話しかけたのかもしれないが、そんなことは到底できなかった。
「本、お好きなんですか?」
いつも通り会計を済ませた後で、ロナル子さんから急にそう話しかけられて、俺は一瞬呆気に取られて黙り込んでしまった。彼女にいつか、話しかけたい、でもどうやって? と悩んではシミュレーションを繰り返していたくせに、彼女から話しかけられるなんて微塵も思っていなくて、返答ができなかった。その沈黙に気まずいものを感じたのか、ロナル子さんは「すみません、迷惑でしたか? いつも本をよんでらっしゃるので」と鈴のような声で小さく付け加えた。
「あ、え、す、好きです!」
何か答えなければと焦った返答は音量の調節を間違えて店内に大きく響く。ロナル子さんは驚いたように目を見開き、肩を揺らしてから、すこし口の端を解いて笑った。ともすれば幼くも見える可愛らしい表情だった。
「本、そう、あの純文学、とか結構、読みます、ここの本、好きなもの、多い」
です、とどうにか付け加えたが緊張でカタコトで話しているみたいになってしまった。今すぐお金を払って逃げ出したいと思っていると、ロナル子さんはレジからお釣りを取り出しながら、俺の手のひらに丁寧に置いた。
「私も好きなもの多いから、嬉しいです」
もしかしたら趣味似てるのかもしれないですね、と彼女が笑う。自分がなんと答えたのか、もう覚えてはいなかった。
ロナル子さんとのレジでの会話を俺は夢見心地で思い出しながら、帰路についた。ぽかぽかと顔ばかりが暑く指先は冷え切っている。家に着いて、自分の部屋の喫茶店にあるよりも小さな本棚に置いてある本で、あの店に置いていないものを思わず探してしまった。実家から持ってこれたものは少なく、何度も読み返す本だけが並んでいる。あのラインナップが好きならば、この本なんて彼女は好きかもしれないと、少し前に話題になったSFの短編集をぱらぱらと捲る。贈ったら読んでくれるだろうか、もし読んでくれたらどの話が好きだったなんて話が弾んだりするだろうかと、勝手に走る思考を止めることはできない。俺は次の火曜日に横浜でその本をもう一冊買った。
プレゼント用に包装してもらおうかとレジで一瞬考え、それでは重すぎるかもしれないと、シュリンクを外してもらうだけに留めた。帯があるといかにも新しく買ったもののようなだから、それも外して、家にある俺の好きな本を持ってきたんです、よかったら読んでみてくださいと渡そうと思いながら、喫茶店へと向かった。
火曜日の七時半。本を一冊持って、同じ時間に、同じメニューで、同じ席へ。決まりきったルーティンは淀みなく行われている。違うのは今日は彼女に渡す本を一冊持っていることだけだった。彼女がやってきて、「いつものですか?」と柔らかい声で聞く。黒いエプロンのポケットからやっぱりあの変な大仏のキーホルダーが覗いている。あまりこういうものに拘りがなくて、そこら辺にあるものを適当につけた結果なのだろうか。
「あの」
勇気を出してかけた声は震えていた。ロナル子さんは、はい? と少し意外そうに返事をする
「あ、もしかして、注文違いました?」
はやとちりしてすみません! とまさにそれが早とちりの謝罪を受けて、俺も慌てて、違います! とそれを否定した。またも音量調節をミスったそれに、彼女が驚いて目を見開く。
「あ、いえ、その、あの、その大仏のキーホルダー」
か、かわいいですね、と言った瞬間に後悔した。別にかわいいと思ったこともないし、本を渡す言葉が思いつかなくて咄嗟に目についたものを口に出しただけなのだが、それにしたってこれはなかった。急に手のひらが汗をかいているのを自覚した。殺して欲しい、いますぐに。もしくは五秒前に時間を戻してほしい。そしたらこの瞬間に声をかけるなんて愚は犯さなかったのに。
ぐるぐると高速で回る思考をよそに、「そうですか?」と明るい声でロナル子さんは小さく、けれど俺の耳に届くように声を上げた。
「嬉しい、実は私、このキーホルダー気に入ってるんです」
そう言ってくれた人初めてです、と小さな秘密を打ち明けるように微笑んで言う彼女の声はまるで弾丸のように俺の胸にぶち当たって弾けた。ゆっくりと瞬きをする長いまつ毛も、ふふ、と吐息が漏れる血色の良い唇も全てが急に光って見えるような気がした。
「あ、あの」
声が震える。鞄の中に入っている本を掴んでいる手に力が入りすぎて表紙が寄れているかもしれない。彼女はこの本のどの話が好きだろうと、今そんなことが涙が出るほどに気になって仕方がない。