心臓のないロナルド君と心臓のドラルク。嘘予告のリブートにずっと囚われている
8.4GHzのしじま
心臓を握り潰されるというのはどんな心地がするものだろう、とロナルドは二分した意識の片方で考えていた。もう片方は、左胸のあたりに霧化して沈んだ高等吸血鬼の青白い手のひらが自分の血肉の中でまさに実体化しつつあることによる奇妙な圧迫感をどう避けるのかに集中していた。喉の奥から登ってくる吐き気が思考に霞をかけることが厭わしい。
「ロナルド君!」
遠くで最弱の吸血鬼の焦った声がする。意識の片隅にひっかかった声の焦りようが面白くて、ロナルドは思わず口の端を緩めた。目の前の吸血鬼が少し意外そうに眉を顰める。今すぐこの瞬間にでも死ぬのだろう吸血鬼退治人が笑うことが理解できないのかもしれない。
腰の左側に指している短剣で吸血鬼の腕を切り飛ばすには時間が足りない。目の前の吸血鬼の頭に銃弾をめり込ませることと、己の心臓が握り潰されるのとどちらが早いのだろうかとロナルドは思考を言語化することなく考える。
「私はお前のためを思っているのだよ、ドラルク」
冷気が肌を突き刺して、割れそうなほどに冷たいというのに、白い息をこぼしているのはロナルドだけだ。銃口から煙が立ち上るのか、それとも自らの胸からこぼれる暖かい血液から白く蒸気が揺らめくのか、きっと一瞬の後にはわかることだろう。ロナルドは喉の奥から溢れ、漏れていく吐き気の正体を確かめる前に引き金にかけた指に力を込めた。
目を開けた瞬間から意識の底をひっかくような違和感を覚える。
視界に飛び込んできた空は真っ暗だった。星も月も見えない空は東の方がかすかにぼんやりと明るく、そちらに向かえば街があるのだろうというのがわかるくらいだった。直前の記憶と今の状態がつながらずに、数秒の困惑の後に、なぜか笑いの衝動に襲われて、口から息を吐き出すと共に声を上げると口元から喉にかけてぱりぱりと何かが剥がれ落ちるのがわかった。
重い左腕を動かして胸のあたりにふれると、服がじっとりと重く湿っている。負けて、死んだ、にしては世界はあまりにも変わらなすぎる。ロナルドは発作ともいうべき笑いが収まった後にゆっくりと立ち上がった。
「……ドラルク」
ぐるりと辺りを見渡しても、そこには廃ビルが立ち並んでいるだけだった。いくつかはさきほどロナルドが相対していた吸血鬼との戦闘で倒壊していたが、記憶と変わっている箇所はなかった。
「どっかで死んでんのか?」
月も星もない差さない死に絶えた街の剥がれかけたアスファルトに己の影が長く伸びているのがロナルドの視界の隅に入る。おーい、とドラルクを呼ぶ声は誰もいない空間に虚しく響いて木霊している。地面には乾きかけたおびただしい量の血がぶちまけられている。真ん中に死体の一つでもあれば納得もするが、そこに横たわっていたのはまぎれもなくロナルド自身で、彼は理由はわからないが、生きていた。
ドラこー、と声を張ってロナルドはドラルクに呼びかけるが、静寂が返ってくるばかりだ。それでもどこか、瓦礫の下や、あるいは廃墟の影から「全く今回は肝が冷えたよ、無鉄砲なのも程々にしたまえよ」なんて出てくるのではないかとロナルドは耳を澄ませる。そこでようやく違和感の正体にロナルドは気がついた。目を覚ました瞬間から、さらさらと砂が落ちるような音が鼓膜の奥でするのだった。ドラルクが死ぬ瞬間に巻き上がった塵が地面に落ちるその時にする音と似ていた。
ロナルドは目を閉じて、その音に集中をする。塵というにはすこしばかり大きいのだろう砂粒が硬く滑らかな、ガラスのようなものに当たって積もっていくような音だ。本来ならごうごうとめぐる血液の音の代わりに、そんな音が聞こえる。それが自らの心臓の音だとロナルドが気がつくまでにそれほど時間は掛からなかった。ロナルドの心臓はそれからずっと、砂時計の砂が落ちるような音を立て続けている。
人間の心臓ではないものが、胸の裡にあるということをヨモツザカに告げられてから、ロナルドはふと自分の胸を開いてそれがどんなものかを確かめたくなる時がある。医学的な見地からすれば生きているはずのないそれが動いているのならば、ロナルドの心臓はこの世のどこかにはあるらしい。この世のどこかに、何らかの方法で〝存在している〟から、吸血鬼の心臓を無理やり繋がれても身体機能が損なわれない、のだそうだ。
それについて知っているのはドラルクか、あの時相対していた彼の師匠くらいのものだろうが、あの日からドラルクはロナルドの目の前に現れることはなかった。人間と手を組んだ吸血鬼がすっかりと姿を消してしまったことに、ロナルドの仲間たちは幾分か落胆したようだった。吸血鬼という生き物の生態について詳しいことはわかっていない。彼らを殺すことは非常に難しいが、その方法の一つに心臓の破壊というものがある。塵や霧に変化でき、変身が可能な彼らにとって心臓という臓器が大事なのではなく、その位相がおそらく重要なのだろうというのはヨモツザカの論だが、正しいかどうかは今のところ誰にもわからない。
ロナルドの胸にうまっているものがドラルクの心臓なのだろうという確信をロナルドは持っていた。三半規管の奥から聞こえるその音は時折不規則に波打つが、それはただの寄せては返す波のようなもので、モールス信号や意志を伝えるものでは決してなかった。それどころか、胸の鼓動が高く低くさらさらと流れるように聞こえるのはどうやらロナルドだけのようで、他の退治人は口を揃えて「何の音もしない」というのだった。まるで死人のようだと。
だが鏡で見る己の頬は血色がさしており、怪我をすれば傷口から血液がこぼれ出た。ドラルクの心臓は、ロナルドの体内で血液循環を滞りなく行っており、つまりこれが臓器が重要なのではなく、位相が重要ということの証左なのかもしれなかった。
ロナルドは眠りに落ちる寸前に、毎回不規則に寄せて返すその音に声をかけるようになった。最初のころは何かコミュニケーションは取れないだろうかという試みだったが、うんともすんとも言わない心臓に次第に諦めが湧いて出て、今では何でもない話をする程度になった。今日食べたもの、出会った人、退治した吸血鬼、道端に咲いていた花、仲間たちと交わした何でもない会話、時折ドラルクの手料理を懐かしがるようなことも言った。
「お前はすぐ死ぬ吸血鬼だからなあ」
またきっと蘇ってくるんだろうな
最後にはそう声をかけてロナルドは眠りについた。さらさらとロナルドにだけ聞こえる鼓動の音は心地よく、ほどよい眠気に誘われる。眠りの前に頭を柔く撫でられるようなその音がドラルクの冷たい手のひらとよく似ている、とロナルドはぼんやりとそんなことを思う。
初めて見たドラルクの心臓は赤い宝石のようだった。ロナルドは遠い昔に自分が物語を読み聞かせられるのを好んでいたことを思い出した。それで、今でも小説のようなものを稀に読む。だから頭にはいろいろな形容が浮かんだけれど、結局一番単純に言うのならば、硬質な赤い色をした宝石だった。その心臓が自分の胸の中で、少しずつ砕けて音を立てていたのだろうかと思うくらいだった。砂時計が落ちる時にするような、あのさらさらとした音はその実、ドラルクの心臓が擦れて欠けてロナルドの体に溶けて消える音だったのかもしれない。
ドラルクの心臓は彼の瞳の真ん中に小さく浮かぶ瞳孔とは似て非なる色をしていた。水分を湛えた眼球の表面でこちら側を見てくる湿度のある色ではなかった。ロナルドはドラルクと出会うまで吸血鬼を屍人と似たようなものだと考え、ドラルクと出会ってからは彼らが人間とは違う理屈で生きているのだと納得し、今はまたその持論に疑問を持った。死んだ吸血鬼は塵になって消えてしまうから、彼らを解剖し研究することは、特に高等吸血鬼であればあるほど難しい。そこらにいる下等吸血鬼たちは害をなすが、意志疎通が難しい上に適切な処置をすればこちらが殺される可能性も低く、姿形も人間とかけ離れているから、殺さないように「研究」をすることへの忌避感も嫌悪感も薄い。対して高等吸血鬼たちは、人とほとんど同じ形をし、人語を介し、意思疎通が可能で、また誇り高い。自らの体を人間にいじくり回されるのに耐えられる吸血鬼をロナルドは見たことがなかった。
ドラルクの透き通った赤い心臓は小さな面がいくつも繋がって、多角形の不思議な形をしていた。角度の違う面たちが、わずかな光を拾って、眩く輝いて見えた。ドラルクの胸にそれが正しい形で収まるにつれて、輝きは鈍く小さくなっていった。視界が少し暗くなった気がして、その時初めて、ドラルクの心臓を持っていた時、暗闇の中で目が効きすぎていたことに気がついた。
ロナルドの胸には人間の、ぬらりと拍動する暖かく濡れた心臓が収まり、耳の奥からはあの美しく、低く高く打ち寄せる音は消えてしまった。消えてしまうともうその音の響きを欠片も思い出せず、ただそれが心地よかったと思っていたのを思い出せるだけになった。耳の奥で鳴る鼓動の音がこんなにも大きいのかと、ロナルドは驚いた。仲間たちが何の音もしないと言ったのは、単純にドラルクの心臓が立てる音が、彼の虚弱さに似て小さかったからなのかもしれない。
「ああ、私たち、なんとか無事に生きているね」
ドラルクがそんなことを、ロナルドを認めてからすぐに言うので、ロナルドはドラルクにぶつけようと思っていた怒りも苛立ちも、[[rb:空 > くう]]に中途半端に浮いてしまって、一度視線を外すように視線を伏せた。視線を落とした先にはドラルクの磨かれた革靴があり、マントの端が見えた。心臓がどくどくと胸の奥でロナルドを突き動かそうとするのが煩わしかった。その衝動はまるで、ドラルクが目の前に現れたこの状況が、彼が言った通りに「なんとかなった」という偶然と奇跡を潜り抜けたもので、その確率があまりにも低かったから、それを喜びたいような、自分とドラルクの間にあるものがまるでひどく大事なものだと、無理やり理解させられているような感じだった。人間の心臓というものはこんなにうるさかったのだろうかとロナルドは訝しみたくなる。
「もう、あんな勝手なことするなよ」
心配した、と言うのは違う気がしたし、そういえばきっとこの吸血鬼は調子に乗るだろうからとロナルドは自分の声音が湿度も温度もともなわないように気をつけながら口にした。吐き捨てるように聞こえれば良いとさえ願った。煙草を吸いたいと反射的に思い、そんなことすら、この吸血鬼が体内にいた間は思いつきもしなかったことを悔しく思った。彼がいない間、吸わなくなっていたそれをロナルドは今持ってもいなかった。
視線をあげると、ドラルクは少し困ったように眉根を寄せていた。それからしばらく何と言おうか口を開いては閉じて、うーん、だとか、そうだねぇ、だとか煮え切らない言葉を発していたが、意を決したのかロナルドの瞳に視線を合わせる。
「それは無理かもしれないなあ」
「は?」
ロナルドの声は怒りを多分に含んだ冷たい声であったし、ロナルド自身先ほどと違って十分に怒りを伝えたかったのでそれでよかった。ドラルクは誤魔化すように視線をつとそらしてから、また沈黙に耐えきれなかったのか視線を戻した。ドラルクの心臓とは違って、彼の赤色の瞳はよく動く。
「私のせいじゃ、ない、とは言い切れないが……、いいか、君の体にはかつて私の心臓があった」
かつてといってもついさっきのことだが、と仰々しい言い回しを好むドラルクは自分の言葉にすぐ訂正を入れる。
「人間の体に吸血鬼の心臓を入れたとしても、本来ならうまく動くわけないだろう。位相を変えて私と君は重なっている。本来なら織り込まれないはずの糸が絡んだまま、縄のように撚られてしまったとも言える」
「俺は生きてたじゃねーか」
「私の類稀なる才能が発揮されてしまったのかもしれんな」
このタイミングで冗談言ってんじゃねーぞ、とロナルドは拳を振り上げたが、先ほどまでは姿形もなかったドラルクをまた塵に変えるのには抵抗があった。ドラルクは普段のロナルドの手の早さをわかっていたのか、まぁ、落ち着きたまえ、とジョンを盾にして言う。
「偶然、私と君の波長があったんだろうな、時々そういうことがある」
つまりだな、とドラルクは続ける。
「君と私は形而下では見えないが、ある次元で糸が絡んでできた縄のように繋がってしまった。君が心臓を失って死にそうになったら、自動的に私の心臓が収まるように……な、ちゃっ、た……かも、しれないんだなぁ……」
いや、確証はないんだけど、ないだけでほぼ確実にそうだと思うんだよなあ、とだんだんと表情が曇っていくロナルドに合わせて語尾を弱くしながらドラルクは呟いた。
「じゃあ、俺が死んだらお前は消えるのか」
「消えるわけじゃないけどね。ただ心臓を預けたまま存在を維持し続けるのは私にはすこし難しいから、君に私と言う存在の楔を打って休眠状態になるっていうか、なんかそんな感じなんだよね」
「それでお前居なくなってたのかよ」
ロナルドの言葉に、ドラルクの表情が打って変わってにやけたものになる。自分の声音にわずかに滲んだ寂しさに気づかれてしまったのだとしたら大失態だとロナルドは舌打ちをしたくなった。だから話題を変えようと口を開く。
「それじゃあ俺は、お前といる限りもう死ねないのか」
人間とは違うものになってしまったのかと問うロナルドに、違うよ、とドラルクが答える。
「君と私の死ぬ時が一緒になっただけさ」
ロナルドの目の前に立っている吸血鬼は目的を見事果たした英雄のように朗らかに笑う。