1.きらきらと光る海の幻

 きらきらと光る海が美しかったという記憶がある。それは昼夜を問わず不意にロナルドの前に現れる。午後の太陽の強い光が波を立てる水面を照らして、それがきらきらと輝いて、まるで小さな鉱石を砕いたようなのだ。思わず目を細めると、その景色は陽炎のように消えてしまう。
 頻繁に見えるわけではないその幻をロナルドはそれなりに好んでいた。単純に綺麗だからだ。綺麗なものを見るのは精神に良いと彼は信じている。幻が現れるきっかけはいつもよくわからなくて、今回は事務所側に差し込む光がすこし眩しくてブラインドを閉めようとしたら、窓のサッシに反射した光が目をちかりと刺したからだった。まるで脳のある特定の部分に電極を刺したみたいに、突然にその美しい海の幻がロナルドの視界に現れる。
 幻を見つめている時、ロナルドはいわく言い難い感情に襲われていることが多い。不安と疲弊と寂しさが溶け合って、眠りつく寸前の微睡に似た柔らかな感情に襲われるのだ。
 ぱちり、と瞬きをするとその幻は消える。退治の合間に出たことはなく、この幻がロナルドの命を危険に晒したことはないから、誰にも言ったことはなかった。もしかしたらロナルドの兄に聞けば何か知っているのかもしれなかったが、聞くほどのことではなかった。
 時折美しい海の幻が見えるのは奇妙ではあるが、嫌なことでも危険なことでもないだろう。
 頭の芯がぼんやりとしているのは分かってはいたが、今は事務所を開いている時間でもない。ロナルドは事務所のブラインドを閉めたところで不意に喉が乾いていることに気がついて、居室側へと戻る。事務所から続く扉を開けると、部屋の中は遮光カーテンが引かれて暗く、明るい事務所側とは違って、一瞬物がよく見えなかった。
 遮光カーテンがひかれた窓の下にわずかばかり、強い太陽の光が漏れている。線が床にすっと落ちて、壁に沿うように伸びていた。
「いてっ」
 それに目をとられながら、キッチンに向かって歩いていたら、床に置かれている棺桶に躓いた。強く爪先を打ってしまって、痛みに思わず呻く。棺桶の中ですやすやと寝ていたらしい吸血鬼が驚いて声を上げたが、文句を言う途中で死にでもしたのか、文句は最後までロナルドの耳に届くことはなかった。
「わりぃ」
 聞こえるように謝ると、棺桶の中から答えは帰ってこなかった。あまり素直に謝ったりすることがないから、驚いているのだろうか。棺桶の蓋をむりやり開けないかぎりドラルクの様子を知ることはできないが、そこまで興味もない。
 だんだんと目が慣れてきたので、冷蔵庫の中から麦茶を取り出してコップに注ぐ。水分の注がれる音が鼓膜を打っているのを感じながら、意識にうすく膜が張られている感覚をロナルドは柔くなぞっているような気持ちになっている。
 カーテンの引かれた窓の隙間から溢れてくる光が、どこかあの幻に似ていて、このまま微睡んだら死んでしまいそうな気がするとぼんやりと考えている。
 
「ねぇ」
 ドラルクがロナルドに何度目かの声をかけたのは、陽が沈んでから三十分は経った時分だった。ちなみにドラルクはソファに座り込んでぼんやりしているロナルドの隣に座っている。午後と夕方の合間の時間にロナルドに棺桶を蹴られて、目を覚ましてからだらだらと寝ながらゲームをやっていたのだが、日没時間をすぎて棺桶から出てきたら、麦茶の注がれたコップをローテーブルに置いたままのロナルドがソファでぼーっとしていたのだ。あまりに気配が薄く最初は気がつかなかったので、彼がそこに座っていることに気がついた時は驚きで死にかけたが、すぐに合点がいった。
 ドラルクには全くわからない上に推察もできない理由からこの人間は時折魂が抜けたようになる時がある。それがやってきただけなのだろう。最初はあまりにもぼんやりとしたその気配が普段とは全く違う挙句に反応も鈍く、面白いことでも出来るかと思ったのだが、そういう感じでもない。
 頬をつついても、どれだけからかっても、普段だったら三回くらい殺されそうな嘘をついても、無反応か、反応があっても生返事がせいぜいなので、こうなった時には放っておくしかないと、とりあえずドラルクは思っている。
 吸血鬼にも長い時を生きすぎてポンチになるのではなく、今現在のロナルドのようになるタイプもいる。普通に過ごしていたのでは張り合いのなくなる生にどうにも面白さを見出すのではなく、全てを諦めてしまうのだ。彼らはただ死を待つ以外にすることもなく、死を待つことそれ自体にもすら飽きてしまって、ただぼんやりと息をしている。吸血鬼は人間と比べて代謝も少なければ、生きていくためにしなければならないこともほとんどない。したがって彼らは本当に文字通り生ける屍になってしまう。彼らは死ぬ瞬間を切望しているというのに、自死をする気もないようで、太陽の光に向かって歩いていくということもしない。終わりを待ち望んでいる存在が本当に終わりたいのかというのは、難しい命題なのかもしれない。
 ともかく、全身の力を抜いて、時折思い出しだように瞬きをするだけの生命力というものが全くない彼は、元々の造形の良さが余すことなく生かされてどこか人形のように思えなくもない。部屋の電気をつける気力もなかったのか刻一刻と暗くなる部屋の中で、青い色をした瞳だけがうっすらと光っている。思い出したような瞬きの度に光が明滅して、それは星に似ている。
「ねえ、ロナルドくん」
「ん?」
 あ、反応が返ってきた、とドラルクは思った。生返事でも反応が返ってくるならば、彼がこの状態から脱するのもそう遠くはないだろう。生ける屍と化す吸血鬼ならドラルクにはいくらでも心当たりがあったが、そうなる人間のことはよく知らなかったし理解ができなかった。彼らは生に飽くほどの長い時間を生きることはできないし、そのような状態とロナルドの性質は全く持って噛み合わないからだ。
「君、どうしてそうなっちゃうんだろうねぇ」
 ドラルクはソファの背にもたれているロナルドの細く柔らかい髪を指先で弄りながらそう口にする。このような触れ合いも普段だったら、なんだよ、と咎められているところだが、この時ばかりはロナルドはされるがままだ。
 吸血鬼の仕業や催眠の類かと疑ったこともあるが、そのような気配を感じたことは一度もなかった。彼は純粋に彼の内で起こっている何事かでこうなってしまうのだろう。とはいえ、例えば人と話している時や、仕事の際、あるいは外でここまでになるのをみたことはなかった。単純にドラルクのいない所でそうなっているだけなのかもしれないが、他の人間からロナルドのこのような状態になっていたと聞いたこともない。
 家の中でだけ、こんなふうになるのなら別に生活に支障が出ない。ロナルド自身、自分がこんな状態になることをはっきりと覚えているわけではないようだ。
「あ」
 ねぇ、ともう一度声をかけようと口を開くのと、ロナルドがぱちりと瞬きをしてドラルクの方を見やるのは同時だった。
「……どらこう」
「ドラ公ですけど」
 生ける屍から生きる人間に戻った時のロナルドの声はまるで今まで寝ていたかのように柔らかくて無防備だ。それがあまりにも幼子のようなので、ドラルクはロナルドの状態に感じている疑問のたった一つも口に出せないのだ。
「え…俺、寝てた? 今何時?」
 瞬きが二回繰り返されて、瞳の焦点がしっかりと合えば先ほどまでの時間はまるでなかったことになる。壁にかかっている時計をみて、時間を告げれば、ロナルドは事務所を開ける時間だと慌ててソファから立ち上がる。
 ローテーブルの上のコップに注がれた麦茶は少しも減ってはいない。だがそれだけだ。だからドラルクはこの事をロナルドにも、あるいは他の誰かにも尋ねた事はない。
 ぱちり、とロナルドが部屋の電気をつけた。ドラルクはいきなりついたライトが眩しくて、先ほどのロナルドのように二度瞬きをした。

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