家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

8.家庭環境の重いロナルド君

 ぱちり。
 蛍光灯のスイッチを切るような音が鼓膜の奥で響いている気がして、ドラルクは誰もいないというのに眉をひそめた。外はすっかりと明るいが、ロナルドの私室のカーテンは、ドラルクが説き伏せて、一番遮光率の高いものにしているから、日中もカーテンが引かれていればドラルクは私室内では活動可能だ。とはいえ、カーテンと窓の隙間から漏れ出る陽光に当たれば死ぬし、事務所側の窓はブラインドになっているために、ブラインドが完全に閉まっていない限りそちらに出ることは出来ない。陽光に当たらないように気をつけながら室内を移動するのは馬鹿らしいから、日中棺桶の外に出ないのは当然である。
 にもかかわらずドラルクが、渋い顔をして棺桶の外で起きているのは、病院にいるロナルドからの連絡を待っていたからだ。先ほどロナルドから連絡がきて、怪我の様子や、入院の日程などを聞いた。夜には見舞いに行こうと考えているが、とりあえずこれから仮眠を取るつもりだ。
 結局ドラルクの祖父が齎らした謎のアイテムによるタイムトリップは、続きのない8ミリフィルムのようにあっけなく唐突に終わった。ぱちり、と明かりをつけるような音が耳の奥でしたと思ったら、ドラルクはロナルドの病室に戻っていた。戻っていた、というのも正確ではないのかもしれない。ドラルクは気を失っていたのか、ロナルドのベッドに上半身を預けて突っ伏していた。変な姿勢で気を失っていたせいか痛む体を引き上げると、ロナルドの腕の中で、ドラルク同様丸まって眠っていたとしか思えないジョンと目が合った。
 大した時間は経っていないのか、外はまだ夜だった。リノリウムの床に散乱したはずのオイルはすっかり揮発してしまったのか跡形もない。割れた茶色の瓶のかけらだけが、祖父に手渡されたものが確かに存在していたことを示している。
 ドラルクはため息をついて、大きな瓶のかけらを拾えるだけ拾い集めてゴミ箱に捨ててから、ベッドの側に置いてあるパイプ椅子を広げて座った。ロナルドは薬のせいかよく眠っているようで、起きる気配はなかった。
 ドラルクは自分が体験したことがなんだったのかを考えようとして、すぐに無駄だと見切りをつけた。すくなくともロナルドは大人になってきちんと生きている。
 何かを言おうと思ったが、なんの言葉も出てこなかった。ドラルクは随分と長い間黙ったまま、寝ているロナルドを眺めた。そしてなんの答えも出ないことを痛感して、その日はそのまま家に戻ったのだった。
 
 面会時間が始まった直後に病室についてしまったドラルクは、これではいかにもロナルドと会いたかったみたいじゃないかと少し悔しく思った。大体ロナルドの面白おかしい醜態を笑うのは楽しくとも、怪我をしたというのに救急車も呼ばず、病院に向かうこともせず、ナイフを腹に刺したまま事務所に戻ってくるような人間について心配させられるのはもはや一周回って腹立たしささえ覚える。そして腹立たしいと感じながら、面会に来ていることそのものが彼を心配していると伝わってしまうようで悔しい。
 とはいえ見舞いの理由もある。着替えや入院に必要な日用品を届けにきたのだ。
 病室に入るとこの間とは違って、部屋に明かりはついていたし、ベッドを仕切るカーテンも開いていた。ロナルド以外の患者がいないのは変わりないが、彼はリクライニングになっているらしいベッドの上半身の部分を持ち上げて、上体を起こしたまま面会にやってきたドラルクに、呑気そうに声をかけた。
「おー、悪いな」
 外出許可出ないから取りにいけないんだよなあ、とあっけらかんという口調に影はなかった。ほんの数日前に腹を刺されたとは思えない。ロナルドの回復力をドラルクは時折疑問には思うが、それが人間の平均値なのか、それとも彼が並外れているのかドラルクはよくわからない。
「その状態で外出されても困るよ」
 どのような処置を施したのか詳しくは知らなかったが、手術をするような事態にはならなかったらしい。事情聴取と経過観察を兼ねた入院は一週間半程度だそうだ。本来ならば個室相当で行われるのだろうが、生憎個室が空いておらず、人の入っていない大部屋に入れられているらしい。
「心配かけて悪かったな」
 そんなことをつらつらと話していたロナルドが最後にそう言って結ぶものだから、ドラルクは眉間に皺を寄せた。
「別に心配はしてないよ」
 言いながら嘘だな、と思ったが、かといって本当のことを言うのも負けたようで気に入らない。
「驚きはしたけどね。君が救急車も呼べない上に、怪我をしたら病院に行くっていう常識も持ってないとは知らなかった。もう二度とするなよ」
 強い口調で言うと、ロナルドは少しバツの悪そうな表情を浮かべたあとで、口の端を緩めてわずかに笑った。今ドラルクが発した言葉には何一つ笑うような箇所はなかったので、この若造が果たして自分の言ったことをきちんと理解できているのか、ドラルクはすこしばかり不安になった。
「VRCが出てこないってことは吸血鬼関係じゃないの?」
 ロナルドに着替えを詰めた紙袋を渡しながらドラルクはそう聞いた。そもそもロナルドが運び込まれたのは市内の総合病院だ。仕事の最中に負った傷であれば、通常はVRCに回される。それに真っ当な警察の事情聴取というのはロナルドの仕事上珍しい。
 ロナルドはドラルクの問いに、言い澱むように口を開いて、閉じてを幾度か繰り返した後、うん、違うなあ、と答えた。
「なんか、通り魔みたいな……」
 自分が刺されたにしては随分とぼんやりとした言葉は最後まで言い切られずにロナルドの口の中に消えていった。
「君を刺すなんて、相手はよっぽど腕っ節が強かったのかい」
「いや、逆なんだよな。普通の雰囲気の小柄な女の人でさ、だから全然わからなかった」
 ナイフも小さかったから持ってるの見えなかったし、敵意とか殺気がなかった、とロナルドはなんでもない風に付け加える。刺されたというのにその発言はいかにものん気に聞こえてならない。世間話にしては物騒すぎるが、かといって他に話すこともない。
 たとえば君の過去に行ったみたいなんだけれども覚えてたりする? と聞いてもよかったけれど、そもそも説明が面倒臭いし、本当に過去に飛んだかもわからないのだ。ただの夢かもしれないし、あれが本当にロナルドの過去だとしたら尚更どう触れたら良いのかわからなかった。現在の彼に、普段の彼にと言いかえてもいいが、過去の面影はない。それを無理やり引きずり出して日に曝すのはドラルクには荷が重いと思えてならない。心は目に見えない。だからドラルクはそこに存在するあらゆるものを無理やり詳らかにするのは、軽率で無責任だと信じている。
「君だったらいかにもありそうだ。今後はもう少し気をつけなよ。ロナルド君は変な時にぼんやりしてるからね」
 ドラルクはロナルドの発言に呆れたようにため息をついて、そう答えた。とはいえロナルドの「ぼんやり」は彼の意識の埒外で発生しているようだから、こんなことを言っても無意味に近いだろう。
 そんなことはねぇよ、と口を尖らせて反発してくるだろうと思っていたが、ドラルクの予想に反してロナルドは少し考え込むように首を傾げた。
「そうだな」
 端的な言葉だった。ドラルクはロナルドの返答が随分と意外に思えて驚いた。
「君が私の言うことを素直に聞くなんて、ちょっと気味が悪いな」
 ドラルクの言いようにロナルドは意外そうに瞬きをしてから、自分の態度を思い起こすようにくるりと視線を動かした。それから声を上げて笑い声を零し、傷が痛むのか腹を抑えて声をあげるのをやめた。それでも笑いはおさまらないのか、音にならない程度に喉の奥で笑っている。
 ロナルドの反応が予想外で、ドラルクは少し気味悪く思った。もしかしたら腹を刺されただけでなく、転んで頭でも打ったのだろうか。それとも祖父の謎アイテムが自分だけでなくロナルドにも実は作用しており、副作用でも出ているのだろうかと、少しハラハラしはじめたところで、ロナルドは笑うのをやめて、ドラルクの方を見た。
「うん、そうだな、ちょっと考えが変わったんだよ」
 予想外のその返事に、ロナルドの真意をドラルクは聞きたいと思った。変わった考えとは何で、以前の考えはどんなもので、今はどう考えているのか。けれどもロナルドが言った言葉はたいそうぼんやりとしたものだったし、ドラルクも自分が本当は何を聞きたいのかが自身でも把握しきれなかった。簡単に言うのならば、少し目を細めて柔らかくこちらを見ているロナルドなんてほとんど見たことがなくて、どう聞いて良いのかよくわからなかったのだ。
「腹を刺されて変わる考えってなんなんだ?」
 だから冗談めかしてそう聞き返したが、ロナルドは口の端を緩めて、また小さく笑うだけで何も答えなかった。
 
 出血量が激しかったが、傷はそれほど深くなかったロナルドの経過は順調で、一週間半ほどの入院は一週間に繰り上がった。退院した日の夜はさすがに疲れたのか、帰ってきてそうそうに寝ていたが、その翌日からはリハビリ代わりの運動もパトロールも普通にこなしている。閉めていた事務所も退院してから数日ですぐに再開した。つまりロナルドが刺される前の日常がもうすっかりと戻ってきている。怪我をした箇所が箇所なので、いくら退院したとはいっても完治したわけではない。したがって恋人らしい行為はしばらくお預けである。ロナルドはどうだがしらないが、ドラルクは相手の体調を押してまでそういうことがしたい訳ではない。それにセックス以外でもやれることは種々様々ある。
 ドラルクは恋人を甘やかすのは好きな方だし、ロナルドも気が抜けていれば割合にドラルクに体を預けることが多い。ドラルクが不思議に思うほど甘え下手のロナルドが甘やかされるの受け入れているのを見るのは気分が良い。
 今日もそんなありふれた一日だ。背もたれを倒したベッドの上でロナルドはだらりとドラルクの膝に頭を乗せて、動画配信サイトのラインナップを見ている。ドラルクとしてはこの時間はまだまだ一日が始まったばかりだから、特に寝るつもりもなく、ベッドに腰掛けて膝の上に乗っている頭を素手で撫でていた。ジョンの腹毛には敵わないが、ロナルドの毛先もふわふわとして触れるのは気持ちが良い。それに今はゲームをしたいという訳でもないので、ロナルドがスクロールしていくテレビ画面をぼんやりと眺めている。
「あ」
 ロナルドが声をあげるのにつられてドラルクはぼんやりと見ていたモニターに意識を集中する。画面の中で選択されているのは、ディスクの傷で途中までしか見れなかったホラー映画だ。
「これ途中までしか見てないよなあ」
 独り言のようにそう呟いて、ロナルドは映画を再生しはじめる。どこまで見たっけ、と言いながらタイムバーを動かしている。止める気は毛頭なかったが、ロナルドのその行動にドラルクはすこし驚いて、ロナルドの頭を撫でていた手が止まる。
「君、ジャパニーズホラー苦手なんじゃなかったの?」
 お化けの話してくれたじゃないか、と軽い口調で、けれど慎重に尋ねると、ロナルドは意外なことを聞かれたというようにぱちりと瞬きをした。
「まあ、得意ではねーけど…ホラーって途中までしか見てない時の方が、理由がわからなくて怖くね?」
 ロナルドの言うこともわからなくはない。結局理不尽で理屈がわからないものが一番怖いのであって、理由が分かればその現象は解体される。未知こそが恐怖の源なのだ。
「それにさ」
 ドラルクが考え込んでいる間に、ロナルドは言葉を続ける。
「この間思い出したんだけど、お化け出てくる時、たまに押入れの中に他の奴がいることがあってさ」
「え、なにそれ、さらに怖い話じゃん」
 正直押入れのお化けの真実をいくらか知ってしまった今となっては、それ以上の要素がまだあったことをドラルクは恐ろしく思った。ロナルドの意識の上でそれがお化けであると処理されてはいても、実際に何が起こったのかと想像してしまうのは気が重くなる。
「いや、そいつがいると、お化け押入れに入ってこないんだよな。いつもいた訳じゃねーんだけど」
 心当たりは大いにあったが、ドラルクはふぅん、と気の無い相槌を打つにとどめた。一回しかおこなっていないことがロナルドの記憶の中で何回かになっているのならばそれは、思い上がっても良いのなら、幸福な思い違いには違いない。
 祖父の道具がドラルクを本当に過去に飛ばしたのかもしれないし、あるいはそういう夢を二人で見ただけなのかもしれない。
 ロナルドはやがてドラルクとの会話よりも映画の内容に気が惹かれたらしく、黙って画面を見つめるだけになった。ドラルクもロナルドに付き合って(映画の内容が気になったのもある)恐怖に怯え、幽霊に呪い殺される人間たちを眺めることにした。
 ロナルドも自分から見ようとした割には、普通に怖がっており、ドラルクの膝と自分の頭の間にクッションを差し込んで、それでも体勢を変えずに映画を見ていた。ドラルクは大きい音や、画面に幽霊がアップになる度に静かに固まるロナルドの頭を手遊び程度に撫でている。手袋をとった指先が頭皮を辿って、時折不自然に引き連れた皮膚に触れる。
 ぱちり。鼓膜の奥で音がする。ドラルクは頭の片隅で傷を負った理由について思いを馳せる。子供のロナルドがこめかみから頬に血を伝わせていたことを。
 冷たい指先はもうすっかりと暖まっているし、ロナルドもドラルクのスキンシップを当たり前のように受け止めているから、咎められることもない。ドラルクは意識を半分ほどは映画に、半分はロナルドに触れることに割きながら、ぼんやりとしている。
 映画はいつの間にかエンドロールに差し掛かっていた。画面を流れる文字から目を離して、ロナルドを覗き込むと彼は眠たそうにゆっくりと瞬きを繰り返していた。
「面白かった? あんまり怖くなかったね」
 映画にあまり意識を割いてはいなかったが、ドラルクが当たり障りのない感想を言うと、要所要所でしっかりと怖がっていたロナルドは、そうかあ? と穏やかに答えた。
「お化けなんて、ロナルド君はもう怖くないんだものね」
 揶揄うように笑いながらそう言う。それからふと思いついたように言葉を続ける。
「いいところに連れていって欲しくなったら、いつでも言ってくれたまえよ」
 なるべくさりげなく、それでも吸血鬼らしく威厳のある声に聞こえるように努力はした。自分の膝の上で微睡む人間が、もしも二度と傷つきたくないと思うのならばそこに連れて行く準備くらい、いつでもできると思わせたかった。
 ドラルクの心情を知るべくもないロナルドは、画面を見ていた顔を、ドラルクに向け直した。仰向けになった彼の瞳は蛍光灯の下でも輝いてなお美しい。銀色のまつ毛が瞬きで何度か揺れる。そこに自分の影が落ちている。彼が何を言うのか、あるいは思っているのか、なぜか冷や汗が背中に滲むような緊張感に襲われた。それでもドラルクは、柔らかい表情を浮かべるように努めた。
 ロナルドは今し方目を覚ましたような瞳で、ドラルクをじっと見つめてから笑った。
「お前はもう、俺をいいところに連れてきてくれただろ」
 微睡の合間のような、柔らかな声でロナルドはそう答えた。

家庭環境の重いロナルド君がお化けを怖がらなくなるまで

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