家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

6.どこかいいところ

 意識を取り戻したドラルクは自分がどこにいるのかわからない恐怖で一度死んだ。塵になった自分を嘆くジョンの声に応えるようにゆっくりと再生をする。先ほどまでは確かにロナルドの寝ている病室にいたはずだが、謎のアイテムを割ってしまって気がついたら、全く違う場所にいるのだから驚いて死ぬくらいは当たり前ではなかろうか。立ち上がろうとして後頭部をぶつけて、衝撃でまた死んだ。再生をしてから視線を走らせるが何も見えない。吸血鬼は暗闇でもよく見えるはずなのにこれはおかしいと思い、手探りをすると原因はすぐにわかった。
 天井と思しき場所はドラルクが立ち上がれるほど高くなく、視界が効かないのは自分の目の前に壁があったせいだった。壁が暗い茶色をしていたので、あたりが窺えないと思っていただけだ。べたべたとまわりを触ると、目の前と左手側はベニヤ板のような薄い木の壁のようで、右手側は紙の手触りがする。背中側には空間があるようだ。
 まったく、一体どういうことだ、と口に出そうとした瞬間、がしゃんと何かが割れる音と、大きな怒鳴り声が聞こえた。随分と威圧的な声は男性のもののようで、ドラルクは怯んだ。もともと暴力的なことはあまり得意ではない。ジョンがドラルクの腕の中で縮こまっていた。
 どうしたものかと悩んでいる間にも、怒鳴り声はやまない。それどころかヒートアップもしているようで、なるべくならば自分がここにいることを気づかれたくない。
「だれ?」
 そうやって悩んでいると背後から声をかけられた。外の怒鳴り声以外の気配を全く感じていなかったので、驚いて振り返ると、そこには小さな子供がいた。真っ暗な狭い空間でも、ドラルクにはよく見える。薄い色の髪をした子供は、青い瞳を瞬かせてドラルクの方を伺うように見ていた。小さな子供の腕の中には、当の子供よりもさらに幼い幼児が抱きしめられている。とはいえ子供もそれなりにまだ小さいので、抱きしめているというよりも、胴と足の間に挟んでいるというのに近い。幼児は怒鳴り声がするどく空間を切り裂く中で奇妙なほど静かに眠っているようだった。子供は空間の隅にどうにか体を押し込めている。まるで自分の体積が少しでも少なくなるといいとでも願うように、折り曲げた足を縮こませている。
「ロ、」
 ナルドくん、と言いかけてドラルクは口を噤んだ。ドラルクの目の前に唐突に現れた(子供からすればドラルクの方が唐突に現れた存在なのかもしれない)子供の外見はドラルクが見間違えることがなければロナルドとそっくりだった。意識を失う直前のことを思い出し、ドラルクの祖父が言ったことが本当であると信じるならば、ドララルの目の前にいるのは子供の頃のロナルドなのだろう。
 冷静になれ、とドラルクは自分に言い聞かせた。深く息を吸ってからもう一度あたりを見回すと、ここはどうやら押入れの下段のようだった。押入れの下段で、子供のロナルドが、おそらくは彼の妹を抱えているとなれば、否が応でもこの間ロナルド自身が語っていた「お化け」の話を思い出さざるを得なかった。
 押入れで寝ていると夜中にふと目を覚ます、と言ってたけれどもこの状況はロナルドが話したものとは大分違う。同じところがあるとすれば、彼が妹を抱えて押入れにいるという一点のみだ。ドラルクが急に投げ出されたこの押し入れには、子供が寝るような布団などは存在しない。固くて痺れるように冷たい木造の床があるだけだし、襖の向こうからは大人の金切り声が聞こえてうるさいし、なにより子供は怪我をしている。
 頭のどこかを切っているのか、額から幾筋か血がつたって丸い頬に曲線を描いていた。ざわりと心の底が波だったような気がした。ドラルクはロナルドが流血をしているのを見るのは、今だけは嫌だった。直近の記憶が強烈すぎる。
「どうしたの?」
 だからかける言葉も支離滅裂になってしまう。なるべく穏やかに聞こえるように言葉を発したけれど、ドラルクは自分がかけた言葉の無意味さに舌打ちをしたくなった。動揺している自覚はあったが、この問いかけはないだろう。どうしたのもくそもない。
 しかしドラルクのこの問いにロナルドは何か言おうと口を開く。ひゅ、と小さく息を飲んだ音がしたが、彼の口から言葉が出てくることはなかった。ドラルクの視線の先で彼はゆっくりと首を横に振った。ゆっくりと振られた頭から頬へと流れていた血液がぽたりと、彼の抱いているさらに小さな子供の頬に落ちる。ロナルドは随分と長い間押し入れにいるのか、暗闇に目が慣れているようで、妹の頬に落ちた血液にはっとして、首を横に振ったのと同じ速度でゆっくりとそれを親指で拭った。見ているこちらの息がつまるような緊迫感と裏腹に、仕草は優しく柔らかい。彼の妹は彼の腕の中でぐっすりと寝ている。起こしたくないのだろうと見当がついた。妹の頬に落ちた血を拭う、子供の表情は驚くほどに静かだ。
 ドラルクだって許されるのならば意識を再び失いたかった。意識を失って目を覚ましたら、また病院のベッドの側に戻っているかもしれない。心臓がバクバクとうるさいほどに波打つのは何も恐怖からだけではないのはわかっていた。
 ロナルドの過去を。
 ロナルドの過去をドラルクは想像したことはない。彼だってそれほど話しはしない。お化けの話をしたのだってかなり珍しいし、兄が親代わりだったこと、退治人を目指した理由くらいしか聞いたことがない。妹がいるとは知っていたが、会わせてもらったことはないし、名前を聞いたことがあるくらいだ。想像したことはないが、考えるのはそれほど難しくはない。それは簡単に一種の絵を描くことができる。点と点があまりにも近すぎて線を引くまでもない答えは、しかし、ドラルクが望んで手にしたいものではない。
 これは大いなる自慢だがドラルクは愛されて育った。父も母も祖父も、彼らに連なる親戚たちも惜しみなくドラルクを愛した。例えばドラルクが、吸血鬼史上稀に見る死にやすさを誇っていたとしても、吸血鬼に備わっている能力がほとんど発現しなくても、それを蔑みはしなかった。ドラルクの両親は、ドラルクの存在をそのまま愛した。時にそれはドラルクが溺れてしまうと危惧するほどだった。だからこんなことは、遠いどこかに確実に存在している、悲惨なおとぎ話の一つにすぎない。
 ドラルクは自分の祖父を呪いたくなってしまう。こんなものはドラルクの手に余る。ドラルクがロナルドを好むのはひとえに平生の彼の面白さからであって、それ以外の何物でもない。時折様子がおかしくなる彼の、その謎に好奇心は唆られたけれども、進んで暴き立てたいとは思っていなかった。長い時を生きる生き物当然の矜恃としてドラルクは自分の懐に入れたものに対してはとても気が長いところがあった。ロナルドが言いたいならば言えば良いと思っていたし、言いたくないなら自然と分かるまではなんだかんだと傍にいるつもりだった。
 あるいは彼が自分の異常を認識していないのならば(その可能性は高いだろうとドラルクは確信していた)その成り行きを見守れば良いのだと思っていた。ドラルクがいくら五歳児とからかっていたとしても、ロナルドは立派な成人男性で、ドラルクと出会うまではそれなりに生きてきているのを知っていた。彼の些細で重大な日常の異常が、彼の命を脅かすことはないだろうと考えていたのだ。
 それも今朝、腹にナイフを刺したロナルドが事務所に帰ってくるまでの話だが。
 ロナルドは死にたいのだろうか。
 ドラルクは考える。
 答えは出ない。当然だ。だってドラルクはロナルドではないのだから。
 
 襖の向こうの金切り声は怒鳴り声と入り混じっている。時折女性の泣き声も聞こえる。ガラスの割れる音、何か固いものがぶつかる音。柔らかいものを殴る時の皮膚と皮膚のぶつかり合う粘り気のある音。
 人間が発する音が重なるたびに、ロナルドの肩が小さく揺れる。ドラルクの腕の中にいたジョンが心配そうに子供にゆっくりと近づく。ドラルクの使い魔のジョンは非常に優秀で、ふわふわの腹毛をもっている。こんな時でも、こんな時だからこそ非常に可愛らしく、妹を抱えたロナルドも彼を警戒する気にはならないようだ。
「大丈夫?」
 ジョンに気を取られているロナルドに、ドラルクは再び小さな声で問いかけた。問いかけた先からまた自分の問いに何の意味がないことを痛感する。ロナルドはドラルクの方を見上げるように見た後で、問われた言葉の意味がわからないというように瞬きとした。こんな状態で大丈夫なことなど一つもないとわかっている。
 大きなものが壁にぶつかる音がして、怒鳴り声が止んだ。どうやら大人同士の〝激しすぎる喧嘩〟はひと段落したらしい。バタンとドアが開いて閉まる音がして、あたりがシンとした。先程までの喧騒と打って変わって、自分の呼吸音や鼓動が煩く感じられるほど静かだ。
 ドラルクは脳裏で勝手に再生されるロナルドの怪談を思い出していた。ドラルクが自負する自慢の脳味噌はこういう時もよく働く。
 ぎしりと床が踏み締められる音がした。ゆっくりと近づいてくる足音はまっすぐに押し入れに向かっている。ロナルドが話したのはお化けの話でも何でもないことを、ドラルクは痛感したが、お化けである方がまだましだった。そっちの方がまだなんとかなる。悲しいかな、ドラルクはフィジカルではどんな人間をも圧倒することが難しい。パターンとしては二つある、とドラルクは思う。例えば今からこの押入れの襖を開くであろう誰かが、もう大丈夫だと、腕に抱いた妹を必死に隠そうとしている子供を抱きしめる。もう一つは単純な憂さ晴らしだ。
 そしてどちらのパターンなのかは、子供の様子を見れば一目瞭然だった。吸血鬼にもそういう輩はいると聞いたことはあるが、出会ったことがない。こんな環境で、彼はどんな気持ちで生きているのだろうと思うと、ドラルクは何とも言えない気持ちになった。
「その子、抱えて走れる?」
 寝続けている幼児を指してそう聞くと、ロナルドは驚いたように目を瞬かせてから、ゆっくりと頷いた。
 ドラルクはロナルドの足にまとわりついているジョンとアイコンタクトを取って覚悟を決める。それからこの子の後についていくんだよ、と使い魔を指し示す。ドラルクはジョンのことを信じている。だからどうにかこの子供達を安全なところに逃してくれるに違いない。
 ぎゅっと自分より小さな子供を抱きしめるロナルドを背後に隠しながら、ドラルクはぎしぎしと近づいてきていた足音がぴたりと止まったのに気がついた。小さな声が聞こえるが、何を言われているかは判然としない。
 すっと、ほんの少しだけ襖が開いて、細い光が差し込んだ。襖を開けた人間がそこに立っているのがわかる。差し込んでいた光が、立った人間の影で一瞬遮られ、上の方からまたゆっくりと差し込んでくる。
 しゃがんでいるのだ、と思うといくらホラーゲームが好きなドラルクにしてもかなり恐怖を感じる。どれくらいの頻度でこういうことがあるのだろうと脳裏に疑問がすぎるが、今はそんなことを考えている場合ではない。影がある程度の低さで止まる。膝をたたみきったのかもしれない。襖に乾きかけた血のこびりついた指がかかるのが見える。戸の向こうにいる人間は何かを呟き続けているが、ドラルクには聞き取れない。ホラー映画を見ているときですらこんなに緊張したことはなかった。ロナルドがあの映画を恐れるのは当然だ。こんなものトラウマ以外の何物でもない。
 ゆっくりと開いた襖の隙間の向こうに、血走った眼球が見える。目頭から血のようにぼろりと落ちたのが涙であることにドラルクは気がついたがそんなことはどうでもよかった。
「ええい!」
 ドラルクは彼なりに気合をいれた、気の抜けた掛け声と共に戸が開いた瞬間に相手に向かって勢いをつけてぶつかった。正直ぶつかった瞬間に塵になってしまったので、ぶつかれたのかどうか分からなかった。けれど突然降りかかった塵は目潰しのようになったらしく、人間は驚いた声を上げて尻餅をついた。しゃがんでいたせいで顔面に細かい塵を浴びた人間は目を開けられないようだ。塵になった主人を嘆いてジョンは一瞬悲しそうな顔をしたが、今はロナルドたちを逃す方が大事だと決断してくれたようで、ジョンと子供たちはうずくまる大人の傍を走り抜ける。
 逃げるな
 人間がそう鋭く叫んで、ドラルクは一瞬ひやっとした。ロナルドが足を止めてしまえば、ドラルクがやったことに意味はなくなるし、次はない。もうあの子供を逃す手段をドラルクは一つも持っていない。けれど、ロナルドは一瞬こちらを振り返ったものの、転がるジョンの先導に引っ張られてすぐに前を向いた。よかった、とドラルクはない胸を撫で下ろした。
 それからゆっくりと塵のまま玄関へと向かう。それほど広くはないアパートは押入れを出て、キッチンを通ればすぐに玄関がある。さきほどの騒ぎで家の中はめちゃくちゃに荒れていた。床に灰皿が落ち、壁紙はところどころ剥げている。割れた皿やコップのかけらが散乱していて、壁には血の痕としか思えないしみがいくつか残っていた。金属の扉をすり抜けて、ドラルクはようやく外にでた。
 追いかけられたら困るので、すぐ外では待っていないようにジョンにアイコンタクトで伝えたつもりだったが伝わっているのか多少不安だった。けれど外の扉にもアパートの階段の下にも彼らはいなかった。
 ジョンの気配を探りながらドラルクは近所を少し歩き回った。この場所がどこなのかドラルクにはわからなかったがすくなくとも新横浜ではなさそうである。今が夜でよかった、とドラルクは思う。昼だったらこうして探しに歩くことは困難だ。
 やがてドラルクは小さな公園にたどり着いた。ブランコと大きな滑り台と砂場があるだけの公園だ。象をかたどった滑り台の下が、ちょうどドームのようにくり抜かれていて、ジョンとロナルドはそこにいた。アパートからは大分離れていると思ったが、ロナルドの体力はこの頃から存分にあるようだ。
 ドームを入り口から覗き込むと、ロナルドがびくりと怯えるのが見えたので、ドラルクは入り口からすこし離れてしゃがみ込んでから、ジョンにおいでと手招きをする。
 ジョンはドラルクが戻ってきたことが嬉しいのか、素早くドラルクの胸に飛び込んできた。
「大丈夫?」
 視線を合わせてそう問うと、ロナルドは少し迷ったような顔をしてから頷いた。そこから横に座ってもいいかと尋ねると、すこし時間をかけてから再び頷いてくれた。
 ドラルクは滑り台の下に入り込んで、ロナルドの横に腰掛けた。腕の中のジョンはロナルドが心配なのか、ロナルドの体育座りをしている足と胴の間に滑り込んだ。やり慣れていないことをやったせいか、身体中が緊張で痛む。
 おもわずロナルドをあの家から逃してしまったが、かといってドラルクにやれることはほとんどなかった。児童相談所に電話、警察に駆け込む、なども考えたが、そんなことが可能だろうか。こちらは住所不定の吸血鬼だし、ドラルクが過去にいるのはどう考えても祖父のあの怪しいミントオイルのせいだった。そしてそのせいならば、祖父がいうように、未来を変えることはできない。ここでドラルクが何か正しいことをして、ロナルドの状況が変わったとしても、それはなかったことになってしまうだろう。
「うーん」
 だが逆に、とドラルクは考える。
 何も変わらないからこそどんな事をしても良いということにはならないだろうか。例えばあの人間たちを跡形もなくしてしまうとか、あるいはいかにも「吸血鬼」らしく子供をさらってしまうとかだ。今ドラルクがロナルドを攫ってどこか一族の屋敷に籠ったとしたって一族の誰も、珍しがることはあってもドラルクを咎めることなどないだろう。それにドラルクは料理が得意だし、ホットケーキだって焼ける。この子供が真実ロナルドの子供時代であるなら、唐揚げだってバナナフリッターだっていくらでも作ってやれる。あの環境にいるよりか絶対に良いに違いない。
 そう考えるといかにも名案のような気がして、ドラルクは笑いながらロナルドの方を向く。ドラルクが二人と一匹を探すまでにいくらか打ち解けたのか、ロナルドはおずおずとジョンの腹を撫でている。
「ねぇ、君が望むなら、私たちと一緒にいいところに行こうか」
 連れて行ってあげるよ、と付け加えてから、あまりにも怪しい誘い文句であるなとは思った。けれどドラルクが口に出した言葉は本気だった。吸血鬼の世界で人間を引き取るのは、昔はさほど珍しいことではなかった。当時、子供の命はとても軽かったし、よく捨てられたり、売られたりしていた。その中から見目麗しい人間を見つけ、磨き上げ育てるついでに食糧にもなってもらう、というのが吸血鬼たちの娯楽として流行ったこともあった。
 大人のロナルドも鑑賞に耐えうる容姿をしているが、子供のロナルドは無口で挙動が大人しい。感情の動きがあまりないのか表情が平坦で、ともすれば人形のように生気がない。その生気のない横顔は、時折魂がぬけたようになるロナルドの横顔と奇妙な程に似ていることにドラルクは気が付く。ともかく、子供のロナルドをドラルクが突然引き取ったと言っても、父や叔母あたりは納得してくれそうな気がする。
 けれどロナルドは、年端もいかない子供の、頼りない細い首をきっぱりと横に振った。血はもう止まったのか、乾いて固まっている。それからジョンごと自分の妹を抱きしめた。妹の服をにぎっている彼の小さな爪は力が入りすぎて真っ白になっていた。
 彼には兄弟がいる、とドラルクは分かっていたのに驚いた。兄を盲目的に信じ、妹を可愛がる彼はこの頃から変わっていないのだろう。彼一人だけならまだしも、彼の兄や妹を含めて攫うのは骨が折れる。不可能に近い。
 仕方ないなとドラルクは思った。
「じゃあ約束をしようか」
 代わりに、そう言った。これくらいならば、未来を変えるようなことにもならないだろう。
「君がもっと大人になって、私と一緒にいいところに行く気になったら一緒に来てくれる?」
 私に拐われてくれない? と出来るだけ優しい声音になるように、笑顔を作って言った。大人のロナルドを甘やかす時のように、優しい頬に触れて血を拭うと、ロナルドはぎゅっと目をつぶる。
 ドラルクがロナルドを甘やかしている時のように、ただ頬を撫でていると、恐る恐るといったように子供は目を開いた。深夜の公園の闇の中で、彼の瞳は変わらず青く美しい。その瞳が信じられないものを見るようにドラルクを見上げている。
 妹と一緒にロナルドに抱きしめられているジョンが、ヌー……と咎めるように鳴いた。吸血鬼が子供をさらうとしたらそれは、そうだ、ここではないどこか素晴らしい場所に連れて行くと決まっている。それはこの世にはない場所のことだ。けれどジョンは一度鳴いただけでそれ以上は何も言わなかった。
 ドラルクはロナルドの返事をいつまでも待って良いと思っていたので、ただ彼が答えを出すまでゆっくりと頬を撫でていた。ロナルドはドラルクに言われたことがいまいち噛み砕けないのか、瞳をすこし困ったように揺らした後で、口の端をわずかに緩めた。緊張がとけたのかもしれない。ドラルクには笑顔のように見えた。いつかどこかへ行けたらいいと彼が思ってくれればいいし、かならず彼はここを抜け出せる。そういう未来はもう決定されている。
 ドラルクの考えを肯定するように、ロナルドは妹を抱いていた腕を外して、ドラルクに差し出した。
「ゆびきり」
 こんなに頼りなくて舌足らずな高い声をドラルクは聞いたことなかった。聞いたことはなかったのに、それはまるで大人の彼がドラルクを夢から覚めたように呼ぶ時の声そのままだった。
「約束しよう」
 ドラルクは手袋を外して、ロナルドの小さな小指に自分の小指を絡めた。子供の体温は、大人の彼に増して熱く小さく震えていた。
 ぱちり、と電灯のスイッチをつけるような音がドラルクの鼓膜に響いた。

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