家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

3.喫煙所

 家に置いてあった灰皿はいつの間にかどこかに片付けられてしまったので、携帯灰皿を持ち歩くようになった。煙を深く吸って吐き出すと、肺から吸収された何かが血管を収縮させて、手や足の先が冷たくなる気がする。わずかな量のどろりとしたタールが血液に混じって、脳をぼんやりとさせるのがロナルドは好きだった。好きだから煙を吸っている。
 キッチンの換気扇の下はいまやすっかり転がり込んできた吸血鬼の領分で、ロナルドが喫煙の為だけに足を踏み入れることはできなくなってしまった。だから彼は随分と新横浜の喫煙所に詳しくなってしまっている。本当はくらくらとする脳の要求に従って、目を閉じて横になるのがなによりも好きだったのに。
 ロナルドは目を閉じて、煙を吸って吐く。喫煙所の中には自分以外誰もおらず、締め切られたガラスの扉のこちら側で自分の口から白い煙が吐き出されて、排気管に消えていった。
 とはいえロナルドは元々あまり頻繁にタバコを吸う方ではない。緊張や不安を紛らわせるためだと半ば自分でも自覚していながら、それを言葉にするのを避けているのだと分かっていた。本当にタバコをよく吸う人間は、タバコを吸うと頭がすっきりとするらしいが、ロナルドは吸ってもそうはならない。日に何本も吸うなんてことはないから、こうして吸っている時に酩酊するような気持ちになるのだろう。目を閉じると、このまま気持ち良い眠りにつけそうで、ロナルドにほのかな幸福感をもたらす。それがもちろん幻だともわかっているが。
「喫煙者の死亡率って、吸わない人の二倍くらいあるらしいよ」
 タバコの煙でさえ嫌がって、煙の匂いで時折死ぬ同居人の吸血鬼は、当然タバコを吸わないのにロナルドと同じくらい新横浜の喫煙所の場所に詳しくて、何故だかロナルドの居場所を探し当てるのが得意だ。
 会いたくない時に限って、彼はこうしてわざわざロナルドを探してやってくるのだ。ロナルドだっていつも同じ喫煙所で吸っているわけでもなく、場所も時間も変えている。というのにもかかわらず、この吸血鬼はこうしてロナルドの元へとやってくる。まぁ、新横浜駅周辺にそれほど喫煙所がないのもある。タバコを吸う人間にはどんどん住みにくい世の中になっていることだと、ロナルドは舌打ちがわりにフィルターを噛み締めた。別段、禁煙が辛いわけではない。習慣にするほど喫煙は日常に溶け込んでいないとわかっている。だから多分、喫煙に代わる行為が見つかれば、すぐにでもやめられるに違いなかった。
 代わりの行為? とロナルドは自分の脳裏に浮かんだ言葉をなぞる。何が代わりになるというのだろう。それをあまりにも強くどこかで望んでいるから、見ないようにしている。だからタバコを吸っているのだ。ロナルドは座っている自分を、立ったまま覗き込み黙っているドラルクが何も言わないのに焦れて、フィルターを噛み締めたタバコを喫煙所の灰皿に押し付ける。
 緑色のソフトケースからロナルドはタバコをもう一本取り出した。まだ吸うのかと目だけで問うてくるドラルクのことは視界の隅には入れていても極力無視しようと努めた。
 タバコを吸おうと思うたびに見当たらなくて買っている安物の使い捨てライターはスイッチが重くて煩わしい。
 ねぇ、聞いてる? と吸血鬼が聞いてくるので、重い体を動かして、ロナルドは視界の隅にいたドラルクを見やった。
「家では吸わないだろ」
 何が不満なのだと言外に含めていうと、ドラルクは大仰に眉を潜めた。煙草を吸いながら、背を倒してもいないソファに倒れ込むことがロナルドはそれなりに好きだったけれど、ジョンの健康を盾にされれば、言うことを聞かざるを得ない。そもそも嗜好品を制限される謂れもないし、外でロナルドが煙草を吸うことに関してはドラルクに何の関係もなかった。口内を舌で舐められる度に苦味を訴えられるような頻度でもないし、血液が汚れるだの何だの聞くがドラルクに自分の血を吸わせるつもりなど毛頭なかった。だからやはり自分の喫煙などドラルクにとってはどうでも良いことのはずだった。
 それでもロナルドの放った言葉は思いの外喧嘩腰の響きが含まれていた。大仰に眉を顰めたままのドラルクは、顰められた眉と同様に大袈裟に深くため息をついた。こんな喫煙所で、深く息を吐いて吸うなんて、ドラルクにしたら致命傷に近いのではないかとロナルドは思う。
「ロナルド君、ちゃんと私の話聞いてた?」
 聞いてるわけねぇだろ、とロナルドは返したかったが、残念ながらドラルクの言葉はきちんと耳に届いていた。喫煙者の死亡率の話で、そんなことはドラルクに言われるまでもなく知っている。煙草のケースにきっちりと書いてある。吸う度に目にするのだから。
「君の生き方、ただでさえ長生きしそうにないのに、積極的に減らしていくことはないんじゃないの?」
「うるせぇ」
 お前は俺の何なんだよ、と言おうとして押し留めた。ドラルクにはそう提言するだけの権利があるような気がしたからだ。恋人同士なんて甘ったるい響きには憧れと同じくらいの反発があって、そういう関係がこの吸血鬼と自分の間を結んでいるのだ。ロナルドはなんだか目が覚めたような思いで、こちらを見つめているドラルクの表情を眺めた。こいつは俺に死んで欲しくないのだろうか、という疑問に答えを出すのはどうにも嫌でならない。
 火がついたばかりの煙草を深く吸う。肺に煙が入るように頭の片隅でイメージする。高校の時保健体育で習ったなあと思う。喫煙者の肺と、そうでない肺の写真だ。喫煙者の肺は黒くて歪に縮んでいる。
 煙草の匂いが好きだったことなどないのに、自分が吸っていると考えるとなんだか落ち着く。煙草を吸う人間が好きではなかった気がするのに、いつの間にか自分がそうなっている。ロナルドはもう一度深く息を吸った。真っ白な煙が肺胞にまとわりついて、血液循環がうまくいかなくなるような、首を締められはじめる時のような息苦しさに脳がぼんやりとして、視界が狭まっていく気がする。このまま目を閉じて、意識を失いたいと思っているのに家には灰皿がなくて、キッチンは自分を見つめているだろう吸血鬼の領分で、ロナルドが特別に可愛いと思っているあのアルマジロを盾にされているから、こうして外で吸っている。
 だというのに、煙草も吸わないくせに、煙でたまに死んだりさえする吸血鬼は、ロナルドが居る喫煙所にやってきて下らない話をしている。
「ねぇ、ロナルド君、人間の一生って本当に短いんだからね」
 念押しをするようにドラルクが言う。他に言うことがあるだろう、とロナルドは思ったがそれを口に出すのは癪だった。ロナルドは観念をするように、火をつけたばかりの煙草を灰皿でもみ消して立ち上がった。
「そうだろうなあ」
 人間があっという間になんとも簡単に死ぬことをロナルドは知っている。そしてその死はロナルドの目の前にいる吸血鬼が頻繁に体験している死と本質的に違うものだとも理解していた。
「帰ろうよ、ロナルド君」
 そう言いながら手を差し出すドラルクの言葉は優しい。声音がまるで子供を迎えにきた保護者のようで、ドラルクと相対しているとロナルドは時々自分が本当に頑是ない子供になったような気がする。子供はこんなところで煙草なんか吸わないだろうに。
 声音も態度も大人のそれだと言うのに、ドラルクの表情はまるでどこに行けばいいのかわからない途方に暮れた子供のような表情をしていた。少なくともロナルドはそう思った。もしかして、自分もこのような、どこへ帰れば良いのかわからない子供のような表情を浮かべているのだろうかと考えると、ロナルドは胸糞悪くて仕方がない。その気持ち悪さを飲み込んで、ロナルドは差し出されたドラルクの手を取った。
 吸血鬼の手のひらは少しだけ冷たくて、まるで死体のようで気持ちが良い。

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