家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

4.夢のように美しい朝

 ロナルドは日の昇り始める朝を一日のうちで一番好んでいた。彼自身、それを自覚しているのかは定かではなかったが、夜を駆け抜ける退治人の仕事の終わりは当然日の昇り始める明け方であることが多い。東京ほどひしめき合っているわけではないが、地平線のあたりにはビルや建物がわだかまっている。駅の方面に立つビルと比べ背の低い建物たちの向こうが明るくなってくるとようやく眠れると、肩の力が抜ける。
 ロナルドは川が伸びる方から差し込んでくる明るい光をみやる。放射状に伸びる光は少しばかり歪んで、新横浜の街を明るくする。朝方の街は人気がなく、額を撫でる風が冷たくて気持ちが良かった。
 鶴見川にかかる橋の赤茶けた歩道を噛み締める足にどうにも力が入らずに、ロナルドは目を細めた。四車線ある道路に車は一台もおらず、この時間ならば普段はトラックなどの大型車両が通っていることが多い事を考えると珍しい風景だった。世界中でたった一人になってしまったような気がする瞬間がロナルドは好きだった。
 退治人服のポケットにこの間から入りっぱなしだったタバコのケースを取り出すと、縦にするどい切れ込みが入って、血に濡れていた。ドラルクの手の冷たさをロナルドは思い出して、口の端を歪めた。細かく震える指先でケースの中から切り裂かれていない煙草を取り出す。
 切り裂かれたケースの合間から血が染みたのか、白い巻紙が所々血に染まっていた。血液でも煙草は湿気たりするのだろうかと思って舌打ちした。口に咥えてから、ライターはあったろうかとポケットの中を探る。指先にかつんとプラスチックがあたる感触がして、取り出すとそれはほとんどオイルの減っていない使い捨てのライターだ。
 ライターの火が消えないように手のひらで囲って重いをスイッチを押し込むと一瞬だけ火がついてすぐに冷たい風に吹かれて消えた。ロナルドはもう一度舌打ちをしてから、立ち止まって自分の体を盾にしてライターの火をつける。着火口から火が立ち上って揺れる。息を吸いながら煙草の先を火に近づける。無事に煙草に火が移ったのを見て、ロナルドは少し安心をした。湿気ていなくてよかった。
 息を深く吸って吐き出すと脇腹が痛んだ。肺に煙を送り込むのために動いた脇腹には明るいグリーンの柄のフルーツナイフが刺さっている。そこからじわりと粘ついた液体が肌を滑る感触がした。
「いってぇな」
 それほど刃渡りのあるナイフではなかったが、痛いことには変わりない。馬鹿みたいに牧歌的なグリーンの柄には、にじんだ色の花のシールが貼られていて、それがなんだかおかしい。
 ふらふらと向かい側から歩いてくる女性とぶつかっただけだった。そもそもこんな早朝に人気のいない橋の上で出会ったのだからもっと注意をしていればよかったと思ったが、そんなことは後の祭りだ。大体小柄な女性一人、ロナルドがどうにかしようと思えばどうにでも出来る。吸血鬼でない限り特別に注意を払ったりはしない。
 そうだ、彼女は吸血鬼ではなくただの人間だった。ロナルドの薄くおぼろげな記憶にある母親のように、弱々しくて小柄で覇気のない人間だ。だからすれ違う寸前に彼女がよろけて、ぶつかってきた時も何の疑問も抱かなかったし、抱きとめるように受け止めさえした。
 最初に感じたのは熱さで、火傷をするようなものでも持っていたのかと勘違いをした。思わず抱きとめていた両手を離すと、ロナルドにぶつかった女性は正気づいたようにロナルドの顔を見上げた。彼女の右目にだけ夜明けの太陽の光が差して、真っ暗な虹彩が茶色がかって見えた。
 あ、と女は呟いた。その声音にどんな感情が含まれていたのかロナルドには理解できなかった。自分の脇腹に刺さったフルーツナイフの柄に貼られたシールの可愛らしさが、自分を今間違いなく刺したのだろう人間の生活を思い起こさせて、それが場違いでなんだか面白かった。女は驚いたように踵を返して走り去ってしまった。陽の光の下でその時初めて、彼女が裸足だったことにロナルドは気がついたがそれだけだった。
 女の瞳を茶色く染めた陽の光はロナルドや橋の下に流れる細い川や土手の緑をも存分に照らしていた。水面にきらきらと反射する光が瞳孔に差して眩しい。ハレーションを起こすみたいに脳裏を薄い記憶が漂う。波のようで掴みにくいそれは、けれど確かに幼い頃の記憶なのだろう。
 ロナルドはあまり物覚えの良い子供ではなくて、それは記憶の風景がぼやけているのと関係あるのだろうかと彼は薄い記憶が脳をたゆたう度に思うのだった。線を四本重ね合わせて星を象った曇りガラスがはめてある台所に、母親が立っている。小柄な背中がまるまっているのをロナルドは床の上に座り込んだままよくぼんやりと眺めていた。東向きの曇りガラスの窓は光をゆるく取り込んでいるが、部屋の電気が消えているので、外が明るいのだけがわかる。母親がくるりとこちらを振り返る。片手に持っているフルーツナイフの刃が柔らかい光を浴びて、何の害意もないように見えた。実際そうだったのだと思う。彼女は片手に白い皿を持っていて、中に何が入っているのかロナルドにはよく見えない。
「   」
 母が自分の名前を呼ぶ。声音に何の感情が乗っているのか、ロナルドにはわからない。先ほど自分を刺した者が何を考えているのかわからなかったように。母親の表情は顔に穴が空いているかのように真っ暗だ。そこから水滴がぽつりと落ちてロナルドの頬にかかる。泣いているのだと思い出した。彼女はよく泣く人間だった。
 煙草の煙を吐き出すと脇腹をあぶるような熱が強くなった。痛みというよりもそれは痺れている感覚に近く、左手でナイフには触れないように傷口の周りを圧迫した。血が滲んで手のひらを濡らす。傷はそれほど深くない。そもそも刃渡りがあまり長くないナイフだった。まだもう少しは歩けるだろうとロナルドは判断をして、緩慢に歩みをすすめていた。
 風が冷たくて気持ちが良く、その冷たさは自分を喫煙所から連れ出したドラルクの手のひらに似ているように思える。ロナルドは自分を刺した人間の面影が母親の記憶に塗りつぶされて、ほとんど思い出せないことに気がついた。だがどうでもよかった。彼女が自分を刺そうとしたのか、他の誰かを刺そうとしたのか、正気だったのか、あるいは頭に血が上って正気ではなかったのか。すべてロナルドには関係のないことで、だから彼女が捕まろうと捕まるまいと、どちらでも構わない。
「あーあ」
 痛みには強いのに喉の奥が勝手にしまって声が震えてしまう。携帯を取り出してドラルクに連絡を入れようかと考えて、そもそも何を連絡するのだと思ってやめてしまった。単純に左手は傷口を抑えているし、右手は煙草を持っているから携帯をわざわざ取り出すのが煩わしいのもある。
 夜明けがロナルドは好きだ。一日ごと訪れる新しさが束の間、この世ではない色を帯びる気がするからだ。煙草を咥えながらゆっくりと歩いていると、ナイフが動いて血が溢れるが、大したことじゃない。空気の中をたなびいている煙の粒子がよく見えて、ロナルドは笑いたくなった。
 ドラルクの待つ家に帰りたいと思ったからだった。そんなことを思ったのは、生きてきて初めてのような気がした。それがどうにもくすぐったくて、喉の奥でロナルドは笑いの衝動を堪えきれずに小さく吐息を溢すように笑う。
 美しい朝だった。
 
 三本目の煙草をフィルターぎりぎりまで吸ったところで事務所について、ロナルドはしばし立ち止まった。橋からここまで歩いてくる間、誰ともすれ違わなかったので騒がれなくてよかったと思いながら、煙草を唇から離して、携帯灰皿の中へと押し込んだ。いつもよりも幾分か時間をかけて階段を上り、事務所の扉の前に立つと、痛みから入っていた力が少し緩んだ気がする。
 完全に陽は登り切っているから、ドラルクは寝ているだろうが、事務所の入り口にたっている帽子かけは、ロナルドが帰ってくればすぐに目をぱちりと開けて、自分を迎えてくれるだろう。メビヤツは慌てるだろうかと思ったが、機械に人間の体が傷ついていると理解できるのは少し疑問だった。ドラルク城の備品としてあったのなら、何かが怪我をしたり死ぬということについて学んでいなくても不思議ではない。
 ドアノブを掴むと血でぬるりと滑った。ビルの廊下に目をやるとてんてんと血の跡が続いている。あまり出血をしていないと思っていたが、ジーンズを伝って、跡ができるくらいと考えるとかなり失血していそうだなとロナルドは他人事のように考えた。
 そう意識すると途端にぐらりと平衡感覚が歪む。とっさにドアに手をついて体を支えて深呼吸をしてしまい、余計に傷が痛んだ。
「な、んだよ、まじで」
 荒くなりそうな息を意識して細く吐き出しながら、扉を開けると、ブラインドが完全に閉じられ、ほとんど陽の差さない事務所のソファに険しい顔をしたドラルクが座っていた。
「は?」
「え?」
 お互いに驚きの声を上げてしまい、あげくドラルクはロナルドの様子に驚いたのか死んで塵になってしまった。ソファの上でドラルクは素早く再生をして、どういうこと?!とまた叫んでいる。元気なものだなあとロナルドはぐらぐらとする平衡感覚のせいで倒れないように苦労しながら思った。
「刺されただけなんだけど」
「だけじゃないだろ! え? お腹にナイフ刺さってるんですけど」
「いや、見たらわかると思うけどそんなに深くない」
「見てわかるか、そんなもん。血の匂いがやたらすると思って来てみたらまじで何?!」
 ドラルクの慌てぶりを見ていると、先ほどまでは痺れの方が強かったはずの痛みがどんどんと強くなってくるのをロナルドは感じた。背筋がスーッと冷えてきて、冷や汗が止まらないのを急に自覚した。
「しかも刺されたのさっきじゃないでしょ」
 その傷口で数分でそんなに出血しない、とドラルクは慌てているくせに冷静に付け加える。ロナルドは強くなる痛みに傷口を抑えていた手のひらの力を緩める。すると、どぷっと血が溢れるのがわかった。あまり意味のないと思っていた動作でもそれなりに役に立っていたらしい。
「まじで、なに、ロナルドくん…馬鹿なの? シンプルに馬鹿なのか?! そういう時はね、君がもってる携帯で救急車を呼ぶんだよ!」
 スマホを取り出しながら普段にはない声量で怒鳴るドラルクの声がぐらぐらの三半規管の中で反響している。
「どらこう」
 痛みに呼びかけた声が舌っ足らずにもつれてしまって子供が大人を呼ぶみたいになってしまった。何? と答える声は慌ててはいるが先ほどよりも柔らかく聞こえる。
「これ、めちゃくちゃいてぇ」
 笑いながら言うと、ドラルクは一瞬表情を落として沈黙した。本当に怒っている時の表情にロナルドは内心少し驚いた。ドラルクは携帯を手にしたまま、ゆっくりと息を吸って怒鳴った。
「当たり前だろ!」
 ドラルクの慌てようが面白くて、刺された傷があまりにも痛くて、グラグラとする視界が愉快で、あるいは家に帰ってきた時に安堵している自分がいることに気がついて、ロナルドは本当に本当に、それが夢のようで小さく声を上げて笑ってしまった。

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