家庭環境の重いロナルド君が■■■■■■■■■■■■■

5.ミントをこするのはやめよう

 腹から突き出したナイフを抑えながら笑っている、意識がおぼつかないロナルドが救急車に運ばれていくのを見送った後、ドラルクは力が抜けたようにソファに座り込んだ。ドラルクの軽い体重を受けてさえ、勢いが殺しきれずにソファは少し軋んだ音を立てる。退治人の仕事は危険だということをドラルクは当然のように知っていた。けれど新横浜に群がる吸血鬼たちは、日本全国でも稀に見る高等吸血鬼がひしめき合っている土地のくせにその全てが妙に牧歌的だ。これほどに吸血鬼と人間が親しい間柄になったのは、ここ最近のことだが、だからこそ高い知能をもつ吸血鬼たちは人間と遊ぶのをことさらに楽しんでいる。だから退治人は危険を伴う職業だと知ってはいてもすっかりと忘れていた。
 背筋がじっとり冷えて死ぬかと思ったけれども、死にはせずに代わりに心臓が早鐘を打っている。慌ただしかった人の出入りに落ち着かなかったのか、それともロナルドの様子が常でなかったことにキャパがオーバーしたのか、びびびびと、先ほどから心細げに鳴いているメビヤツをドラルクは落ち着かせようと撫でた。
 完全に陽が昇っているために救急車に同乗できなかったのだが、搬送される病院が決まったら連絡をくれるとのことだったし、意識を完全に失っているわけでもないロナルドに救急隊員が色々と聞いてくれるだろう。
「日が落ちても帰ってこなかったから、様子見に行ってくるよ」
 よっぽどのことがなければ死ぬという感じでもなかった、と思う。心配であることは確かだが、側についていても出来ることはないだろう。何はともあれ連絡がきたらすぐに出れるように、携帯の番号は伝えてあるから、とドラルクは携帯を棺桶の中に持ち込んでしばし仮眠を取ることにした。
 
 ロナルドが搬送された病院から連絡がきたのは、彼が救急車で搬送されてから数時間後のことだった。連絡はロナルドの兄であるヒヨシから齎された。ロナルド自身からこちらに連絡をしてくれと頼まれていたようである。ヒヨシの連絡は淡々としたもので、彼の声音にはドラルクが訝しむほど動揺がなかった。刺された箇所がよかったらしく、命は別状はないし、後遺症も残らないだろうというのが医者の見解らしい。ドラルクはひとまず安堵のため息をついた。こういうのを悪運が強いというのかもしれない。
 ドラルクがロナルド吸血鬼退治事務所に転がり込んでいる吸血鬼だというのは局地的にも有名な事実ではあるが、書類上となると彼は事務所の備品でしかない。日本の社会システムが家族をそれなりの単位として運用されている限り、ドラルクがこのような状況でロナルドにやれることはほとんどない。
 ドラルクは連絡をくれたヒヨシに礼を言い電話を切ってから、棺桶の蓋を開ける。部屋は暗かったが、窓にかかったカーテンの隙間からは光が差しているのが見えた。携帯の画面に表示された時刻からわかってはいたが、まだ日没には時間があり、ヒヨシが言付けてくれた病院は事務所からほど近く歩いて行ける距離だが、今向かうことはできない。
 棺の外ではドラルクが起きた気配につられたのか、ジョンが寝床から起き出して心配そうにドラルクを見つめている。
「ロナルド君、命に別状はないってさ」
 まるでドラマのセリフみたいじゃないかと思いながらドラルクはそう呟いて、ジョンに向かって手招きをする。ジョンはドラルクの行動に応えるように、素早い動きでドラルクの棺に飛び込んできた。
「すぐに行っても迷惑かもしれないしね」
 実際のところあらゆることですぐに死んでしまうドラルクはその代わりにすぐに再生できるので、怪我や痛みには縁遠い。それにロナルドが帰ってくるまで起きていたから寝足りないのも確かだ。携帯で日没の時刻を調べ、その時間にアラームをセットすると、ドラルクはジョンを抱いて本格的に眠ることにした。
 目を覚ましたのは、携帯のアラームがなる一分前のことだった。ジョンはドラルクの枕にうずもれてすやすやと寝息を立てている。携帯の時刻を見てから、目覚ましがなり響く前にドラルクはアラームを切った。日没が一分後に迫った部屋にかかるカーテンの隙間はまだ明るいが、それも数十分すれば暗くなってしまうだろう。ドラルクはジョンを起こさないようにそっと棺から抜け出して、身支度を整えた。ロナルドが居なければ、別段こちら側の部屋の電気をつける必要はない。吸血鬼は夜目が効くのだから当然だ。
 ジョンを起こして、事務所を出る頃には外はすっかりと暗くなっていた。吸血鬼が多く暮らす新横浜では太陽に当たることのできない吸血鬼用の面会時間があり、ドラルクが病院についたのは、面会時間が始まってすぐの事だった。
 ロナルドかヒヨシが言伝ていたのか、ロナルドの名前を出すと病院の受け付けはすぐに病棟と部屋番号を教えてくれた。一般外来の終わった総合病院の中は、救急外来で運ばれてくる患者の対応に慌ただしくしている医師たちか、病院に慣れ親しんだ者たちしかおらず、どうにも疎外感を覚える。ドラルクはジョンを抱いたまま、病室に向かった。
 ロナルドが収容された病室は大部屋だったが、奇妙なことにロナルド以外はその部屋に誰もいなかった。四つ並んだベッドのうち三つともカーテンが開けられており、整えられた簡素なベッドがあるばかりだ。ロナルドがいるのであろうベッドだけがカーテンで区切られていた。消灯時間はまだ先だったが、部屋は暗い。
「ロナルドくん?」
 大きな声で呼ぶのがなんとなく憚られて、カーテンを開けながら小さく声をかけるが答えはなかった。それもそのはずでロナルドはベッドの上で静かに寝ていた。顔色が少し悪い気がしたが、腹にナイフを刺したまま帰ってきたロナルドの顔色など大して覚えておらず、その時よりも状態が良いのか悪いのかはドラルクには良くわからなかった。
 吊り下げられた点滴の袋から落ちてゆく水滴に視線を移してしばらくぼんやりとした後で、ドラルクはまたロナルドに視線を戻した。顔色は覚えていなかったが、彼の瞳がまるでがらんどうのガラスみたいだったことはすぐに思い出せた。痛みからか焦点を合わせるのに苦労するようにさまよう視線といつもより水分を多く湛えた瞳は、彼の表情とはまるでちぐはぐで、ドラルクはそれがどうにも落ち着かない。胸の中に発生した感情につける言葉をドラルクはまだ知らなかった。
 痛いだなんて当たり前のことを今気づいたように言って小さく声をあげて笑うロナルドのことがドラルクは全く理解ができなかった。確かにドラルクは痛みとは縁遠い生き方をしている。けれどもそのものを理解できないわけではない。すぐに死んでは生き返るドラルクと違って人間であるロナルドの体は基本的に替えがきかない。声を上げて笑う彼がいっそ狂人のようならドラルクはまだ納得しただろう。けれども彼は本当に、まるで屈託なく、それこそ今日の夜食はオムライスだと伝えた時と同じように笑うから、訳が分からなくなってしまった。
 ロナルドの寝息は穏やかだ。ドラルクはベッドの側に置きっぱなしになっているパイプ椅子に座り込んだ。眠ったままのロナルドの頬に爪を滑らせる。柔らかく暖かいのが手袋越しでもわかった。ジョンがドラルクの腕の中で心配そうにロナルドの顔を覗き込んでいる。
「ハロー、ドラルク」
 唐突な声は病室の窓から聞こえた。先ほどまでは閉じていたはずの窓ガラスは開け放たれて、吹き込んできた風がカーテンを揺らした。
「お祖父様…?」
 突然に現れた真祖にして無敵の吸血鬼であるところの祖父にドラルクは驚いたように声を上げた。どうしてここにやってきたのか全く検討がつかなかったからだ。すると彼はドラルクの考えを見透かしたように、ニュースになってたよ、と平坦な声で言った。
「そうなんですか…」
 ロナルドが救急車で運ばれてから、今の今までSNSやテレビなど見ていなかったので知らなかったが、良く考えれば彼の身内は神奈川県警の人間だし、彼自身それなりにネームバリューのある人物だ。刺されたなんてニュースになっていてもおかしくないのかもしれない。
 するりと音もなくカーテンの合間をぬって、ドラルクの祖父はロナルドのベッドを挟んで、ドラルクと相対した。
 大柄な彼はちらりと寝ているロナルドを見て目を細める。祖父の表情が動くところをドラルクはほとんど見たことがないが、その中では目元が一番雄弁だ。雄弁だというのに、今、祖父が何を考えているのかドラルクには良くわからなかった。
「今回は間にあって良かったね」
 今回? と呆けたように祖父の言葉を繰り返すと、彼はロナルドに投げていた視線をドラルクへと投げた。祖父の瞳はドラルクやドラウスと違って、赤く大きい。縦に伸びた瞳孔が余計に感情を読み取らせない。
「ま、にあったんですかね…」
 祖父が何をもって今回といい、間に合ったと言っているのかドラルクにはピンとこない。
「間に合ってないの?」
 真祖の問いにドラルクはゆるく首を振った。ロナルドは生きているし、後遺症も残らない。もしも傷がもっと深ければ、あるいは出血が激しかったら、ドラルクがいる場所は寝ているロナルドのベッドの側ではなく、霊安室の扉の前かもしれないが、現実はそうはならなかった。
 こんなことが何回もあっては困るが、次があったからといってドラルクが事態を防ぐことはできない。誰に誇るつもりもないが、ドラルクの弱さは折り紙つきなのだ。それこそ今彼の目の前にいる祖父の強さくらいには、絶対的な物だ。
 そもそもドラルクはロナルドがいつ、そしてなぜ刺されたのか詳しいことを知らなかった。ニュースになっていたというのなら、ドラルクよりもニュースを見た祖父の方が詳しい可能性の方が高い。
「間に合いたい?」
「…は?」
 祖父の言葉はいつも端的で、時折主語が抜けている。だからドラルクは彼の祖父が何を思って、どんな場面を想定しながらそんなことを言っているのか、真意がつかめずに、呆然とベッドサイドに立っている男を見上げる。
 赤い虹彩の中に浮かぶ縦に伸びた瞳孔からは、何の情報も読みとれやしない。しばらくの間沈黙が降りて、点滴が落ちていく音だけが病室に響く。ドラルクの様子に何か納得したらしい彼の祖父は、懐から小さな茶色の瓶を取り出した。
 遮光ガラスの瓶の中はとろりと粘度のある液体で満たされている。
「なんですか、これ」
「ミントのオイル」
 ドラルクが訝しんでそう聞くと、すこしばかり楽しげな口調で祖父は答えた。
「ミントのオイル?」
 どうしてそんなものを取り出してきたのか、ドラルクは全く訳がわからずに鸚鵡返しに問い返した。じっとドラルクを見つめていた瞳を細めて、彼は端的な説明をし始めた。これは過去に戻ることの出来るオイルなのだと。説明を聞きながら、冗談にもほどがあるとドラルクは思う。なんのミントでどんなオイルだ。世界中のどこを探したって、そんな効用を持つ植物も、精油も存在しない。いくら彼の祖父がなんでもありだとはいえ、これはスケールが違いすぎる。
「それは、貴重なものなのでは?」
 どんなに技術が進んで、タイムマシンが出来たとしても過去に戻ることはできない。人類は未来に進むタイムマシンしか手にすることは出来ないと証明されている。ドラルクの目の前にいる吸血鬼が真祖にして無敵で、はるかな時間を生きていたとしても、過去に戻るなんてことができる訳はないのだ。それに、どうして祖父がそんなものを今、ドラルクに渡すのか全くわからない。
「貴重だけど、無駄な物。過去を大幅に変えることはできない。未来が大きく変わってしまうようなどんなことを起こしても、なかったことになる」
 だからこれは過去を盗み見るようなものなんだよね、と付け加えて、茶色の瓶を差し出した。ドラルクは反射的に祖父の指先から落とされたそれを受け止める。
「助かって良かったね」
 ドラルクが瓶を受け取ったのを確認してからロナルドをもう一度見遣って満足げにそう言った後、ドラルクの祖父はドラルクの答えを待たずに去っていってしまった。
「……な、なんだったんだ」
 まるでコンテクストがめちゃくちゃの映画を無理やり見せられた後のようにじんわりと痛むこめかみを抑えながら、ドラルクはそう呟いた。それから祖父に渡された瓶を窓から差し込む光に透かして揺らす。瓶の中で、祖父の言うことを信じるのならば、過去を盗み見ることのできるミントのオイルなんていう不思議道具が揺れている。
 とはいえドラルクには間に合いたい過去もなければ、変えたい事柄もなかった。彼は現在にとても満足をしていたし、ロナルドが刺されたことには非常に驚いたけれど、今のところ退治人は生きているし、一週間もすれば退院できるだろう。
 けれども、ロナルドの過去に興味がないといえば嘘になる。彼の様子が時折おかしくなる理由が過去にあるのならばそれを知りたかったし、時々おかしくなるそれこそが、今回の彼の行動を招いたような気もしていた。ロナルドは何の問題もなく生きている。彼に何か問題があるとしたら、すぐに救急車を呼ぶことなく事務所に戻ってきた事くらいで、似たようなことが繰り返されるのだとしたら、いつか彼はそれが原因で死ぬだろう。ロナルドがどうしてそうなるかの原因をドラルクはしらなかったが、なぜそうするかの理由は薄々わかっている。
 ロナルド自身は過去についてはあまり話さないけれども、金属の缶の中に入っている写真は楽しそうなものばかりだ。存分に興味はあった。けれど本人が話さない過去を暴き立てるのは露悪が過ぎる気がして、ドラルクはしばし黙って掌の上で瓶を弄ぶ。
 やはりこんなものは必要ないだろう。
 ドラルクがそう思った瞬間をまるで狙ったかのように、掌から瓶が滑り落ちて床に打ち付けられる。ぱりんとひどく軽い音の後に、中身が床にこぼれて、オイルとは思えない速度で気化していく。
 鼻腔を強烈に刺激する匂いはまぎれもないミントの香りに違いなく、確かにこれはミントのオイルという他はないだろうなあ、と至極当然のことを思いながらドラルクは意識を手放した。

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